「マリア・テレジア=オーストリアの女帝」。そう覚えている人は多いだろう。だが、彼女の生前には「オーストリア帝国」はまだ存在していなかった。では、彼女はいったい何を治めていたのか。そこに見えてくるのが、複数の王国や地域を一人の君主が束ねる「ハプスブルク君主国」という独特の仕組みだ。現在の「一つの国」という感覚では捉えきれない、多民族・多地域からなる巨大な政治体は、どのように成り立っていたのか。『地図で学ぶ深読み世界史』の著者が、マリア・テレジアを手がかりに、ハプスブルク家の知られざる実像をひもとく。

マリア・テレジアを知れば見えてくる、ハプスブルク家の本当の正体Photo: Adobe Stock

「オーストリアの女帝」は正確ではない?マリア・テレジアの本当の肩書

 マリア・テレジアを「オーストリアの女帝」と覚えている人は多い。しかし、厳密に言えば、この呼び方は少し正確ではない。

 そもそも彼女の時代には、まだ「オーストリア帝国」という国は存在していなかった。オーストリア帝国が成立するのは1804年で、マリア・テレジアが亡くなった1780年より後のことである。

 彼女自身も「オーストリア皇帝」だったわけではない。マリア・テレジアはオーストリア大公であり、ハンガリー女王、ボヘミア女王など、複数の君主号を持っていた。夫フランツ1世が神聖ローマ皇帝となったため、彼女は皇后ではあったが、自ら神聖ローマ皇帝として即位したわけではない。この複雑さこそ、当時のハプスブルク家を理解する鍵である。

マリア・テレジアが治めた「国」の意外な正体

 彼女が治めていたのは、現在のオーストリアという一つの国ではなかった。オーストリアの諸領邦、ボヘミア王国、ハンガリー王国など、歴史も法律も政治制度も異なる地域を、同じハプスブルク家の君主が束ねていたのである。

 そのため歴史学では、このまとまりを単純に「オーストリア」と呼ぶより、「ハプスブルク君主国」と呼ぶことが多い。これは、一枚岩の国家ではない。地域ごとに法律も身分制議会も伝統も違う。話される言語も異なる。それぞれの地域が固有の権利や制度を残したまま、一人の君主を共有していた。

 つまりマリア・テレジアは、一つの均質な国家を上から支配していたのではなく、性格の違う複数の政治体を同時に統治していたのである。

 だから彼女の政治では、中央集権化を進めようとしても、すべての地域を同じように扱うことはできなかった。徴税や軍制、行政を改革しようとすれば、それぞれの地域の伝統や特権と向き合わなければならない。ここにハプスブルク君主国の難しさと強さがあった。

 現代の感覚では、「国」が先にあり、その国の中に国民がいると考えやすい。しかし近世ヨーロッパでは、王朝が先にあり、一人の君主が歴史の異なる複数の地域を束ねるという政治体も珍しくなかった。ハプスブルク家は、その代表的な存在だった。

なぜハプスブルク家は、多様な民族と地域を束ね続けられたのか

 そして19世紀になると、この仕組みが大きな試練を迎える。フランス革命やナポレオン戦争以後、ヨーロッパではナショナリズムが強まり、人々が「どの君主に属しているか」だけでなく、「自分たちはどの民族なのか」を強く意識するようになっていく。

 それでもハプスブルク家は、さまざまな地域と民族を抱える政治体を第一次世界大戦まで維持した。もちろん、その過程には反乱の鎮圧や強権的な統治もあった。一方で、地域ごとの制度や特権を残したり、ときには妥協したりしながら、多様な地域を一つの王朝のもとに共存させてもいた。

 マリア・テレジアを単なる「オーストリアの女帝」と見るより、「異なる歴史と制度を持つ複数の地域を同時に治めた君主」と見る。

 そうすると、ハプスブルク家がなぜヨーロッパ史で特別な存在だったのかが、ずっと分かりやすくなる。彼女の時代を見ることは、「一つの国家には一つの民族がいる」という近代的な常識とは違う国家の姿を見ることでもある。マリア・テレジアは、その複雑なハプスブルク世界を理解する格好の入口なのである。