協力集団では分業が行われていたので、仕事の割り当てに対して、責任ある一貫した態度が必要だったからです。
たとえば、息を殺して茂みに隠れるのが得意な人は、狩猟における「待ち伏せ役」に割り当てられたでしょう。追い立てられた獲物を確実に仕留める役です。しかし、その待ち伏せ役が、狩りの最中に突然動き回ったらどうでしょう。
それは本来、「追い立て役」がとる行動です。
つまり、分業の達成には、特定の行動が一貫してとられていなければならないのです。逆に言うと、ある行動を一貫してとることによって、それにふさわしい役割が割り当てられるのです。
とくに、まだ言語発達が十分でない時代の協力活動では、そのような「役割にふさわしい態度を見せること」が重要であったにちがいありません。
集団において役割が与えられ、見事役割が果たせれば「集団に貢献した」と位置づけられ、当人もうれしいのです。
場面ごとに違う自分が
現れるのは当然のこと
このように協力集団のメンバーとして承認されるには、自分の行動が一貫している必要があったがために、私たちは「自分の揺らぎ」が不安になるように進化しているのです。
狩猟採集時代は唯一の集団で生活していたので、簡単に一貫性が確立できました。
そのうえ、槍投げ役がいなくなってしまえば、誰かが担わねばなりません。自分が上手でないと知っていながら、集団の意向を忖度して、槍投げができるような態度を示さねばならない局面もあったでしょう。
そのあたりの心理的な駆け引きもたがいによくわかる親密な人々による、唯一無二の協力集団だったのです。
『科学が解明した 悩んでもしょうがないことリスト』(石川幹人、サンマーク出版)
ところが、現代社会では事情が異なります。
子どもは、たとえ家で甘えていても、学校では自立した個人を演じなければなりません。
大人になったらもっと大変です。さまざまな集団に属し、いろいろな状況に対応しなければならず、とても一貫性にこだわってはいられなくなります。
それにもかかわらず、「一貫性がないのはいけないこと」という漠然とした感じだけが残っているのです。
もちろん、約束を果たす責任ある態度は大事ですが、時と場合によって「自分が揺らぐ」のは問題ありません。現代社会でも許容されつつあるかと感じます。







