法則という言葉は、そもそもどんなものでしょうか。物を手から放せば、必ず下に落ちます。誰がやっても、何度やっても、同じ結果になる。だからこそ、これは法則と呼べる。

 ところが、人生の成功は、そうではありません。ある人がうまくいったやり方を、そっくり真似た別の人が、あっさり失敗する。逆も、いくらでもある。同じ手を打って、結果がばらばらになるものを、法則とは呼びません。

『老いと死をファクトで考えてみた』書影『老いと死をファクトで考えてみた』(出口治明、扶桑社新書)

 なぜ、ばらばらになるのか。それは、あいだに運が挟まっているからです。同じ努力、同じ判断、同じ行動でも、たまたま時流に乗れば実を結び、時流を外せば徒労に終わる。その分かれ目を作っているのは、多くの場合、本人の力ではありません。

 ですから、成功の手順書をどれだけ精密に写し取っても、写せない「運」が、いつも最後に効いてくるのです。

 こう書くと、暗い話に聞こえるかもしれません。挑んでもたいてい失敗するのなら、挑むだけ無駄ではないか、と。

 けれども、僕は逆に考えています。成功に法則がなく、大半が失敗に終わるのだとしたら、なおのこと、挑む回数を増やすしかないではありませんか。

 打席に立たなければ、ホームランは絶対に出ません。何度も立つ人にだけ、ときおり当たりが巡ってくる。しかも、外した打席も、そっくり無駄になるわけではない。うまくいかなかった経験そのものが、そのぶん、あなたの器を厚くしてくれるからです。

 結局のところ、成功とは、再現できる技術ではなく、何度も挑んだ末に、運がこちらを向いてくれるのを待つ営みなのだと思います。

 だとすれば、僕たちにできることは、2つしかありません。挑み続けること。そして、運が向いてこない時期を、腐らずにやり過ごすことが大切です。