カトリックにしても、宮津教会のような例は少なかろう。ただ、こちらの宗派には、いくつか畳敷きの会堂がある。たとえば、熊本の天草にたつ﨑津教会(1935年竣工)が、そうなっている。山形の鶴岡教会(1903年竣工)も、同じ例にふくめてよい。
もっとも、鶴岡教会ではパイプ椅子が用意されている。信者たちは畳の上であっても、椅子に腰をかけながら、ミサの時間をすごしうる。その点では、宮津の教会や﨑津教会との間に、溝がある。いずれにせよ、畳敷きとの親和性はカトリックのほうが強そうである。
宣教師の記録には
畳敷きの教会が登場する
さて、日本にはじめてキリスト教がつたわったのは16世紀のなかごろであった。フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸(1549年)が、そのさきがけだとされている。ザビエルはイエズス会の宣教師で、日本にカトリックの信仰をもたらした。以後、17世紀のはじめごろまで、この宗教は勢力をのばしている。教会や神学校なども設営した。
そして、それらはみな木造である。床には、たいてい畳がしきつめられた。その割合は、明治以後にもうけられた教会より、よほど高い。今、例外的だとみなされる畳敷きのほうが、当時は一般的であった。
ザビエルは、山口に本拠をおく戦国大名の大内義隆から保護をうけた。そのことを、ザビエルじしんが書きとめた記録ものこっている。たとえば、離日後にインドのコチンから本部へおくった手紙が、そうである。これによれば、大内はザビエルらへ、つぎのような住居をあたえていたらしい。
「領主は、一つの寺院を私達の住居として与へた。私達がこの寺院に引き移るや否や、私達から神の言葉を聴くために、無数の人々が押しかけて来た」(ペトロ・アルーペ 井上郁二訳『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 下』1949年)
仏教寺院のひとつがあてがわれたのだという。大内もザビエルらに、西洋的な教会をたててやろうとは思わなかったようである。そして、もらったその施設を、宣教師たちは布教の場としても活用した。じっさいに、地域の住民をこの寺へあつめている。
宗教としてのキリスト教は、仏教や神道との共存や融和へむかわなかった。唯一神の信仰にこだわり、他宗を異教としてはねつけている。布教の過程で、寺社の建物をうちこわすことだって、ままあった。







