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元週刊ダイヤモンド編集長が高校生向けに実施している授業「大学への経済学入門」を基にした連載『経済学タイムトラベル 歴史を動かした経済思想家たちの軌跡』。第9回は新井白石です。ヨーロッパで近代経済学への扉が開いたのは18世紀です。江戸時代中期にあたります。鎖国(1630年代)体制が定着し、独自の経済・文化が誕生、成長して蓄積しました。そして西洋諸国とはまったく異なる経済社会に至った、と私たちは思いがちですが、実はイギリス東インド会社とオランダ東インド会社がアジアの物産や金銀をめぐって激しく抗争していた重商主義の時代に、日本も深く関係していたのです。今回は17、18世紀の江戸時代へタイムトラベルし、天才的な学者兼行政官、新井白石の経済政策を探索します。
2歳で文字を書き写し3歳で『太平記』を聞く天才
豪商からの「逆玉の輿」提案断り幕政へ
本日のゼミナールのテーマは新井白石(1657~1725)です。彼の経済思想は同時代の西洋の経済思想である重商主義とどこが似ていてどこが違うのかを考えてみたいと思います。このシリーズの2回目に登場した初期重商主義の学者であり実務家だったトーマス・マン(1571~1641)の著書『外国貿易によるイングランドの財宝』が公刊されたのが1664年ですから、白石が7歳の年でした。同時代とは言えませんが、かなり接近した時代です。
みなさんは高校の「日本史探究」の授業で新井白石について学びましたか?
生徒C:白石は「正徳の治」を主導した儒学者で、インフレ対策のために貨幣の品位を上げる改鋳を実施し、また中国、オランダとの貿易を制限した施策で知られています。この2点は必ず取り上げられます。
まず、新井白石の経済政策について概要を説明しておきましょう。白石は幼少期から学問に秀でた天才でした。青年期からは朱子学を学んでいます。6代将軍徳川家宣や7代家継に「侍講」として仕え、のちに「正徳の治」と呼ばれる改革を主導しました。C君が話してくれましたが、5代綱吉による生類憐みの令を廃止して社会の安定を図り、純度を上げる貨幣の改鋳、金銀流出対策の貿易数量制限などに取り組み、日本経済の健全化を目指しました。これが白石の経済政策に関する一般的な説明でしょうね。
生徒A:幼少期から学問に秀でていた、とは何歳くらいのことなんですか?
自伝である『折たく柴の記』(★注1)には、2歳で絵草紙の『上野物語』の絵や文字を写しとって遊んでいたというエピソードが記されています。3歳で『太平記』の講釈を聞き、講師に質問していました。9歳で父親が仕えていた久留里藩藩主土屋利直から毎日4000字を筆写するように言われ、実践していたそうです。4000字は漢字です。このころから父親の書簡を代筆していたそうですから天才で、かつ秀才ですよね。土屋利直は幼少の白石をとてもかわいがっていたそうです。
生徒C:将軍の「侍講」とは役職名なんですね。なんとなくわかりますけれど、主君のそばに仕えて教養を講ずる役職ですね。
そう。いわば学術顧問です。徳川家宣および家継の侍講として、「正徳の治」と呼ばれる文治政治を主導しました。役職名でいえば侍講ですが、実態は政策立案の中枢を担う首席補佐官でしょう。
白石の思想には三つの背景があると思います。第1に、朱子学の名分論(名と役割の認識・実践)によって社会秩序を道徳的に正当化すること。第2に、長崎のオランダ商館などを通じて得られた西洋に関する知識。第3に、史資料を検証する合理主義と実証主義です。
生徒B:朱子学については「日本史」の教科書であまり触れていませんでした。儒学とどう違うのですか。
儒学の一派が朱子学といえるでしょう。反論はあると思いますが。徳川家康(1542~1616)は仏教ではなく、儒教(儒学)によって秩序の安定、維持を図ることにしました。宗教は封建制の維持を逸脱して体制を破壊することもあるからでしょうね。儒学は孔子(前551~前479)の教えを基にした哲学・思想であり、社会の規範を維持・発展させる思想、つまり身分制を基盤とした封建制度を守る側の哲学でもあるので、平和になった時代のガバナンス(統治・統制)にぴったりだったのです。
なかでも、南宋の儒学者朱熹(1130~1200)が新世代の儒学を集大成した朱子学(宋学)は、観察して究めるという合理的で実証主義的な側面があり、徳川幕藩体制下、公認の学問として日本社会に浸透していきます。朱子学者の林羅山(1583~1657)が家康の学術顧問となり、4代将軍まで仕えました。林家は日本の朱子学派の中心ですね。林羅山は明暦の江戸大火(1657)直後に他界しています。その明暦の大火で焼け出され、避難先で生まれたのが新井白石なんです。
ここからさらに白石の歩みを見てみましょう。白石は久留里藩士新井正済の長男として江戸で生まれました。明暦の江戸大火で焼け出され、母親と白石は領地の久留里へと送られましたが、短期間で江戸へ戻っています。『折たく柴の記』の何カ所かに記されています。
生徒C:久留里藩は現在の千葉県中央の山間部ですね。JR久留里線の終点でしたっけ?
いえ、終点は上総亀山ですよ。木更津と上総亀山を結んでいるのが久留里線で、久留里はその終点の十数キロ手前、木更津寄りの駅です。現在の住所では君津市久留里ですね。久留里城は復元されており、天守閣の下に市立久留里城址資料館があります。白石の父親は藩の目付職だったので、ほとんど江戸藩邸に駐在していたそうですが、何度かは父子で久留里の屋敷に滞在しています。昨年(2025年)は、白石の没後300年というアニバーサリーイヤーでした。
生徒C:没後300年!それで今回の経済思想家シリーズに入れたんですね(笑)。
いや、ぜんぜん知らなかったんですが、たまたま読んでいた新聞に「没後300年記念【新井白石展】久留里城で開催中」という記事が載っていたのです。会期末ギリギリだったんですが、クルマで行ってきました。久留里には初めて行きました。
成長した白石は父親とともに久留里藩の土屋家に仕えていたわけですが、1675年に土屋利直が没し、2年後には土屋家の内紛に連座して父子ともども久留里から追放されてしまいます。白石は21歳でした。秀才としての名声は高く、漢詩を大量にものした詩人としても知られていました。すると、なんと河村瑞賢(各地の航路開拓で知られる豪商、1618~1699)から巨額の資金付きで孫娘に婿入りしないか、と誘われたそうです。
生徒B:でも、受けなかったんですね。優雅で知的な生活を送れたのになあ。
そう、この逆玉の輿の話は断っています。朱子学者としては、「オレは武士だ。商家では名分が立たず」、といったところでしょう。河村瑞賢は晩年、幕府に請われて武士の身分を得ていますが。その後、土屋家は久留里から改易、新井父子の処分も解け、1682年(26歳)には大老堀田正俊の古賀藩へ出仕しています。
生徒D:波乱万丈の人生ですねえ。それでもまだ20代なんですか。
ところが古賀藩へ出仕した2年後、堀田正俊は江戸城で斬殺されてしまいます。堀田は5代将軍綱吉の大老に就任していましたが、この事件後、白石は改易された堀田家2代目に従って山形藩に出仕します。一方で、朱子学者の大物、木下順庵(1621~98)に師事することになりました。武士として侍講にとどまるよりも、朱子学者として立とういうことでしょうね。1691年には堀田家を辞し、江戸で塾を開講します。
【次ページの3つのポイント】
(1)白石が甲府徳川家で進講した科目の数々
(2)勘定奉行(財務官僚)荻原重秀のインフレ政策
(3)白石は朱子学的な貨幣改鋳でデフレ政策へ







