しかし、僧侶のいなくなった仏堂などをあたえられるケースも、なかったわけではない。また、当時の日本に、西洋建築をてがけられる職人はいなかった。来日した彼らも、基本的には日本建築でくらさざるをえなくなる。日本の宗教は拒絶したが、建物は寺もふくめうけいれた。

都を追放された宣教師たちを
畳敷きの教会が支えた

 ザビエルが日本をさった14年後、1565年のことである。京都の朝廷は、宣教師たちを、一時期都から追放した。同地で布教にあたっていたルイス・フロイスも、たちのきをしいられている。この決定に、京都のキリシタンたちはおもしろい行動をとった。その対応ぶりを、フロイスはこうつたえる。

「彼らは、司祭が去った後には、異教徒らがただちに教会の中で破壊を始めるだろうと知らされると、さっそく教会を空っぽにし、すべての戸、木製の窓、階段、畳などを取り去って自宅に運び始めた」(松田毅一、川崎桃太訳『完訳フロイス日本史2』2000年)

 この記述から、京都の教会には畳のしかれていたことが、よくわかる。

 都をおわれた宣教師たちは、しかし河内のキリシタンにたすけられた。彼らに支援の手をさしのべたのは、結城弥平次という小領主である。その結城が設営した新しい教会のことを、フロイスはこうつたえる。

「それは瓦葺きで、内部には100枚の畳が敷かれ、司祭や修道士たちがそこに来た時に彼らのために用立てられる非常に清潔でよく設備された幾つかの居間がついていた」(同前)

 100枚の畳がしかれた館を、イエズス会士たちのために提供したという。もちろん、フロイスらを歓迎するための寄進である。日本の信者たちは、西洋の宣教師も畳の部屋をよろこぶはずだと、信じてうたがわない。また、西洋人たちも、それらをありがたくちょうだいした。畳にあらがったという記録をフロイスは、ひとつものこしていない。

安土城の修道院は日本風の
畳や襖がある建物だった

 話題をかえる。明智光秀が本能寺で織田信長をうったのは、1582年のことである。このあと、まもなく信長の居城であった安土城も、焼けおちている。

『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか』書影『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか』(井上章一、新潮社)

 生前の信長は、キリスト教に好奇心をいだいていた。安土城のすぐそばに、宣教師が修道院や神学校をいとなむことも、みとめている。じっさい、それらは宣教師・オルガンティーノの指導により、建設がすすんでいた。

 だが、安土城の焼失後、ここは掠奪されつくす。ふたたび、フロイスの叙述によれば、以下のような被害をこうむったらしい。

「家具のみならず、鍋、浅鍋、部屋の戸、窓、畳、襖、(中略)同所に集められていた材本までも持ち去られたので、残るものといえば運搬できない柱と屋根だけであった」(同前3)

 畳や襖まで、ねこそぎうばわれたのだという。安土の修道院や神学校は、宣教師たちが建設に力をつくした施設であった。信長らをはじめとする有力者からあたえられたものではない。それでも建物は、材木で構成され、畳や襖がはめこまれている。日本建築の枠をこえようとはしていない。宣教師たちに、西洋建築を日本へもちこむ意欲はなかったようである。