写真:関ヶ原古戦場,決戦地関ヶ原古戦場 決戦地

関ヶ原の戦い以前の
秀吉の大名配置と意図

 日本では政治家などが回顧録を書くことは少ないし、日記といっても備忘録のようなもので、内心を吐露するようなことはほとんどない。一方、イギリスが典型的だが、欧米では回顧録を書かないと人生は完結しないといわれるし、書けば批判も殺到するので真剣勝負だ。だから面白いし、よく売れもする。

 戦国武将の逸話とかいうのも、自分で書いたものでないし、誰かにこう言ったという話も、そのほとんどは後世の創作で、信頼できるものが少ない。

 そんななかで、武将たちによる褒美や領地を与えたという客観的な事実は、そこから家臣たちへの評価や将来構想を読み取れるので、当てにならない伝聞よりよほど雄弁だ。

 今回は関ヶ原の戦いの後で家康が差配した大名配置から、関ヶ原の戦いにおける家康の各武将の論功についての評価や天下構想を探ってみようと思う。

 まず、関ヶ原の戦い(1600年)の前における秀吉による大名の配置はどうだったのか。その意図は、天下統一の後、関東を安定させ、後顧の憂いをなくして、大陸戦略を進めることと理解すればいいと思う。

 家康に北条旧領を与え、その後を織田信雄に与えるはずだったが、信雄が転封を拒否したのでこれを改易した。

 東北は、会津に蒲生氏郷を入れて要とし、伊達政宗ら地元勢力ににらみを利かした。家康を背後からけん制しようとしたともいわれるが、それはおかしい。なにしろ、氏郷の死後は、子の秀行に家康の娘をめあわせて後見させたのであって、むしろ、家康の東日本支配を安定させるために氏郷を入れたのである。

 だが蒲生家の内紛が収まらず、上杉景勝と交代させ、越後には堀秀治を入れた。いずれも、直江兼続、堀秀政という天下の三陪臣に秀吉が数えていたといわれる名家老が居たので、それも考慮したのだろう。

 このときには、上杉に対し、家康がにらみを利かすことも少し加味されている。なぜなら、上杉氏は関東管領の家柄で、関東に野心を持っていたからだ。

 一方、信雄の旧領である尾張は三好(豊臣)秀次に与え、大和・紀伊・和泉を領する秀吉の弟・秀長と並ぶ重鎮にした。当時はまだ鶴松が生きていたから、秀次を跡取りにするつもりではない。

 同時に織田信雄に充てるはずだった家康旧領には、堀尾吉晴、中村一忠、山内一豊、浅野長政、田中吉政が入り、秀次の失脚後に尾張に入れた福島正則も含めて、家康ににらみを利かせようとしたはずだが、関ヶ原では彼らがみな東軍についてしまったから大失敗だった。

 西日本は小早川隆景に筑前を与えて西日本のまとめ役にしたのだが、秀吉の死の前年に死んでしまい、その穴を埋められないままになった。