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豊臣秀吉の天下統一を影で支えたと言われているのが、弟の秀長だ。激情家で破天荒な秀吉を副将として支え戦果をあげ、ときには交渉役の立場で裏方に回る。あの用心深い徳川家康を掌握し、数々の有力外様大名を束ねてきたその卓越したマネジメント手腕とは?※本稿は、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』時代考証の黒田基樹監修『秀長と秀吉 天下を取った豊臣兄弟と野望に生きた戦国武将たち』(宝島社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
豊臣秀吉の右腕として
紀伊・和泉のほぼ全域を攻略
天正13年(1585)3月10日、秀吉は権大納言から内大臣に昇進し、天皇の御所に初めて参内している。
その後、秀吉は、小牧・長久手の戦いで織田信雄に味方した、紀伊の根来寺や雑賀衆、四国の長宗我部元親、越中の佐々成政、そして三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5カ国を領国とする徳川家康といった勢力の鎮圧を進めていく。
まず行われたのが、紀伊根来寺や雑賀衆の討伐だった。
天正13年(1585)3月20日、秀吉は羽柴秀次を大将とする先陣を遣わし、翌21日には自らも出陣して紀州征伐を開始した。この出陣には秀長も従軍し「副将」を務めたとされる。
秀吉は同日のうちに根来寺方への攻撃を開始し、2日後の23日に放火、さらに翌24日には雑賀衆が籠もる紀伊太田城を攻撃した。
その一方で、秀吉は仙石秀久、中村一氏、小西行長らの直臣を紀伊南部に進攻させ、秀吉に抵抗する畠山貞政の拠点・鳥屋城や湯川直春の湯川館を攻略している。
さらに秀吉は、同年4月16日に高野山を服属させ、22日には太田城を水攻めで攻略して紀伊を平定。これにより秀吉は、紀伊・和泉のほぼ全域を攻略した。







