『Tかわ』が最後まで逸脱し続けたもの

 ドラマの内容が示すものはおそらく個人や関係性の多様性である。ただ「多様性」と言葉にした途端にそこから漏れてしまうものがあり、その言葉にできない違和感や、これまでの連ドラのパターンから逸脱する現代の感覚こそをこの作品では描きたかったのではないかと考える。

 既婚男女が密会していれば不倫、不倫といえば泥沼、待つ妻は従順。そういった形式からことごとく逸脱していく物語だった。

 肯定的であれ否定的であれ、最後まで見てしまう人が多かったのは、この違和感と逸脱がどこまで続くのかを見届けたいと思ったからではないだろうか。

 この逸脱を、視聴者に対する肩透かしであり、あざといと受け取る視聴者の気持ちもそれはそれで理解できる。

 ただ考えてみれば、私たちはドラマを見るとき、「この二人は恋愛関係になる」「失踪には納得できる理由がある」「物語の最後には謎が解ける」といった、これまで見てきた物語の「型」を無意識のうちに当てはめている。

『Tかわ』は、その型から少しずつ、時には大胆にはみ出していった。だからこそ、「なんで?」「そんなのアリ?」という違和感が生まれ、それを解消したくて次の回を見てしまう。そして最終回まで見ても、すべての違和感がきれいに回収されるわけではない。

 人も、人と人との関係も、本来はわかりやすく分類できるものばかりではない。夫婦でも恋人でも友人でもない「名前のない関係」があるように、他人について最後までわからないことがあってもいい。というかそもそも、他者に対しても自己についても、完璧な理解など不可能なのだろう。理解不可能な余白を『Tかわ』は提示したと考えたい。

 賛否両論になった後半も含めて、この作品は視聴者の予想通りには動いてくれなかった。そして核となるテーマが、誰しもが自分と切り離すことができない「家族」についてだった。

 だからこそ最終回が終わった後まで、「あれはいったい何だったんだ」と誰かと話したくなるドラマになったのではないだろうか。