ソーシャルメディア時代の記事は
書くことが始まり

開沼 「炎上」した、魚を食べた記事の話をしましょう。記者は批判を受け止めるべきですが、一方で地元の側にとっても重要だったとも思うんです。ツイッターで批判的に発言していた地元の一人に「被災地のことをどうにか知りたい、役に立ちたいと思っている人が書いたものをとにかく叩きつぶすことによって、今後誰もいわきのことを書かなくなる事態になったら、一番おいしくないことだろう」と言ったら「それはそうだ」と言ってました。

 報じる側と当事者が何度も喧嘩しながら、どういう問題があって、どういう言葉がいいのかを鍛える機会がこれまで足りなかった。その点で、正直もっと炎上してほしかったところもあります。傷ついた人がいるならばケアするべきですが、地元の側も自分達がどういう風に論じられたいのかというのをもっと声に出していくべきです。

藤代 記事に対して色々な意見が出ているときに開沼さんは「炎上の後に何が残るかが大事」とおっしゃっていましたね。謝って記事を取り下げたりすると、次からこのテーマでは書く事も掲載することもできなくなる。

開沼 タブー化しているところで意図的に炎上を起こし、議論を喚起することは重要な意味を持ちます。ただ、「炎上をあえてさせる」のと「うっかり炎上しちゃう」のは全然違います。

藤代 3・11以降の報道に「寄り添う」というキーワードがあるが、記者は永遠に当事者にはなれない第三者。当事者が声に出せないことを真正面から問う役割がある。その時には覚悟を持って誠実に取材者と向き合うしかない。ソーシャルメディア時代の記事は、書くことが始まり。反応から新しい記事を書けばいい。ただ、最近はソーシャルメディアですぐにバッシングを受け萎縮してしまうことがある。これを「私刑化」と呼んでいるが、私刑によって誰もが当たり障りのないことしか言わなくなる社会がいいのか。

開沼 「言論の自由」は権力者やテロによってのみ侵されるのではないんです。むしろ現代では、そのようなわかりやすい誰か、何かではない、無名の人々の無意識の中で侵される。まさに「私刑」で、その主体は、当事者もだがそれ以上に、当事者を慮った風を装う周囲の関係ない人間であり、彼らが言葉を潰し、社会を硬直化させているんです。何か指摘されたらそのことを記事にしていくという循環が発生すればいいし、そこで対話を始めるのは技術的に可能なのに、どうして謝って消して漂白してしまうのかということは問題です。漂白化にあらがう覚悟が求められます。