「米山さんのお話は、うちの専属作曲家になって『影を慕いて』のような珍しい作品を入れて欲しいというものであった。しかし、私は学生時代には、主として『メヌエット』などのクラシックの練習曲を作っていたので、歌謡曲の作曲家として生きることには、やはり自信が持てなかった。そこで、『コロムビアに勤めることは有難いことですが、作曲家ではなく、普通の社員ということでお願いしたい、学校の成績も一応十番以内には入っているのですから……』とお答えしておいた」(古賀政男、前掲書)

 古賀政男は最初から演歌を作曲していたと思われがちだが、発想はクラシックである。慶応義塾大学、同志社大学、早稲田大学のマンドリン・オーケストラはすでに1910年代から活動しているが、いずれもクラシックのアレンジやオリジナル作品を中心にしていた。23年に誕生した明大マンドリン倶楽部もクラシックとオリジナルを中心としており、古賀政男のアレンジもクラシックをベースにしている。定期演奏会では本科3年から指揮者だった。

 コロムビアからの誘いに、「歌謡曲の作曲家として生きる自信がない」と言っているのはそのためである。歌手も大半は東京音楽学校の声楽専攻出身者ばかりで、当時の古賀作品は演歌の曲想とはかなり違う。

 けっきょく、月給120円で作曲家としてコロムビアに入社することになった。ビクターからみると、佐藤千夜子の「影を慕いて」などがとくに売れたわけでもなく、専属作曲家には中山晋平といった大御所を抱えていたので、とくに古賀を独占しようとは思わなかったのだろう。月給120円は、たぶん現在の価値で100万円はあったと思われる。古賀は27歳だった。

 月給の金額について、こう書いている。

「(略)英人社長と米山さんが相談したらしい。今度は、月二曲ずつ作曲するという条件付きで社員としてやとおうと言う。月給の希望を聞かれたので、これまで六十円で生活してきたから八十円ももらえればと答えた。すると向こうが言うには、外資系の会社だから昇給はない、そのかわり百二十円出そう。月給百二十円と聞いたときには腰を抜かさんばかりに驚いた。おそらく当時の一流会社の課長以上であったろう」(古賀政男「「私の履歴書」『私の履歴書――文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)

「英人社長」とは、1929年に日本蓄音器商会(コロムビア)副社長に就任し、その後は35年に日産へ買収されるまで社長だったL.H.ホワイトのことである。ホワイトは「英人」ではなく、米国人である。日本コロムビアへ英米の両コロムビアが出資したが、英国コロムビアのほうが出資比率も高く、英国系という印象が強かったのだろう。人材は米国コロムビアが派遣している(連載第43回)。

 古賀の入社は1931年3月で、早くも5月には「乙女心」(関種子)を発売している。関種子(1907-90)も東京音楽学校を卒業したソプラノ歌手で、その後も古賀作品を10曲以上歌っている。