「物語」にリアリティをもたせるのは
細部の描写である

 先端的な科学論文でコピー&ペーストがまかり通っていた、という事実が与える衝撃は、先のゴーストライター問題を遥かに超えている。そのあまりにショッキングな出来事の前には、彼女が消費されてしまった「ストーリー」など、些細な問題であるかのようにも映る。

 しかし、今になって振り返れば、「意味もない」と思われていたストーリーこそが、じつは最も明確に、彼女を取り巻く空気の“異常さ”を浮かび上がらせていた。

 彼女に関する紹介記事を改めて読み返すと、「若き女性研究者であること」「研究室の壁がピンクであったこと」「大好きなムーミンのステッカーが貼られていること」「白衣の代わりに祖母からもらった割烹着を着ていること」「記者会見でヴィヴィアン・ウエストウッドの指輪をしていたこと」などが細かく記されている。

「そんなの、どうだっていいことだろう」と憤る方がいるのは承知している。「もっと伝えるべき重要なことがあるはずだ」という意見にも、おおむね賛同する。しかし、ストーリーというのはそもそも、一見すると「どうでもいいこと」によって構成されている。ストーリーにリアリティを持たせるのは、細部の描写だ。

「若い魅力的な女性である」という要素が科学的ニュースの価値を上げていたのだとすれば、その要素について記者が取材をするのは、なにもおかしなことではない。細部の描写が彼女自身の「幼さ」を明確に伝えていたとしたら、私たちはそれらの情報から、まったく別の物語を読み取ることだってできる。

 STAP細胞論文に関して、中身そのものよりも小保方さん本人のキャラクターに注目が集まったのは、そのニュースが、最初からある種の「うさん臭さ」を醸(かも)していたからだと思う。少なからぬ人たちが、「どうせ、若い女性だから注目されたんだろう」「女は得だな」という疑いのまなざしで、彼女を見ていた。

 これはなにも、彼女だけが悪いのではない。そう思わせる環境が、彼女の周りにあったということだ。だからこそ、論文が発表された直後から、それに関する疑惑の数々がインターネット上で次々と指摘されることになった。