忍び寄る危機の助走

 製造担当の取締役が夕方お客様相談室長のところに出向いてきた。「何か重要なことが起きたのかもしれない。」 室長のSは取締役の緊張した雰囲気を察して直感的にそう思った。A社はケーキなどの洋菓子を製造販売する会社である。取締役は椅子に座るとすぐに話を切り出した。

 昨日、取締役宛に封書が届いたという。手紙は名古屋市に住むご老人夫婦の夫から出されたものだった。1週間前にA社のケーキを購入、食べた数時間後、奥様の便にかなりの血がまじっていたと書いてあった。医師の診断では、特に消化器系の病歴もなく異常は認められなかったため、食べ物に何か異物が混入していたのではないかと指摘をされたことも、最後に添えられていた。

 心配した取締役は今朝、封書に記載されていた電話番号に連絡したところ、奥様はその後異常はなく、夫も念のためにA社へ情報を提供しただけということで、特にA社へなんらかの対応を求めているわけではないとのことだった。

 しかし、取締役がわざわざS室長に会いに来たのは、単にその報告だけではなかった。実は1週間ほど前、工場長が製造担当の取締役あてに、ある報告をしていたことに端は発していた。最近仕入れたケーキの原材料となるバターに、金属片が混じる事例が多くなっているという。金属探知器に感応する商品が多数発見されており、ロット単位で廃棄はしているものの、全てが完全に取り除かれているかは不安との報告であった。

 取締役は、ここ数日のお客様からの苦情を確認することと、同時に今後苦情が多数入ってくる可能性について示唆しに来たのである。取締役を不安にさせているもう一つの情報源は、洋菓子共同組合の会議で同じ原材料仕入元から仕入れている同業他社Xの役員が、ポツリと「あそこのバターはやばいぞ!」と漏らしているのを聞いたからである。

 仕入元は大手上場企業C社で、このバターを海外から調達している。バターは色々な加工製品に混ぜられているため、使用している企業は大手だけでも30社以上はあると聞いている。同業他社のX社に限らず、他の会社でも問題は出始めているはずであるが、なぜかマスコミからは何も聞こえてこない。室長は、何か見えない大きな力が、暗い穴の中でうごめいているのを強く感じた。