満鉄調査部は1907年4月に発足している。調査が重要という考え方は後藤新平による。満鉄調査部といえば帝国日本の経済シンクタンクとして知られるが、東海林太郎が入社した1923年の時点で、調査部ではなく、調査課だった。調査部は発足翌年の1908年に「課」となっていたが、ロシア革命(1917)以降はロシア研究の中心的存在として拡大していた。満州各地の調査機関を統合して再び「部」となったのは1939年のことである(小林英夫『満鉄調査部』平凡社新書、2005)。

 規模は発足当初の調査マン100人程度から、1939年から40年には2000人を超える大規模な研究機関に拡大していった。

 マルクス主義者の佐野学や、弟子の東海林太郎も入社させる満鉄調査部には、「多くの『思想的前歴者』が多数入社した(略)もともと調査部はリベラルな雰囲気が強かったといわれている。/調査部内には、当時発禁の書だったマルクスの『資本論』が置かれており、調査部員はこれをテキストに読書会や研究会をしていたという。世間では、これを『満鉄マルクス主義』と称した」(小林英夫、前掲書、2005)。

 優秀な研究者ならば思想はどうでもいい、ということだろう。東海林太郎は満鉄調査課に1930年まで7年間勤務し、署名入りの著書を1冊刊行している。

東海林太郎の著作『満洲に於ける産業組合』のトビラと目次。奥付は「庶務部調査課」が著者名だが、トビラには「東海林太郎」とクレジットされている
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 『満洲に於ける産業組合』と題された著作は1925(大正14)年2月に満鉄を発行元として出版されている。満州の信用組合、購買組合、生産組合、畜産組合から果樹組合まで、あらゆる組合組織を調査し、分析したレポートである。経済の実態を多面的に調査する調査課の実証的な研究だった。

 読んで面白い本ではないが、丹念に調べたデータの山に、彼の几帳面な性格がうかがえる。現在、この本は国会図書館や多くの大学図書館に所蔵されているので、比較的簡単に手に取ることができる。

満鉄退社後、声楽家を目指して転身

 東海林は学生結婚している。相手は同郷の庄司久子で、東京音楽学校声楽科を卒業している。2人の男子を出産しているが、1925年以降は東京へもどり、東海林は単身赴任となる。久子は31年に離婚すると、すぐにベルリンへ留学してしまう。東海林自身も30年8月に満鉄を退社し、音楽への道に復帰するのだから、夫婦して音楽があきらめきれなかったのだ。