急いでアメリカに戻ったカーネギーはカーネギー・マッキャンドレス社を設立し、1870年には初の高炉を建設、ベッセマー製鋼法の実用化に取りかかる。1880年、ブラドックに溶鉱炉を建設、24時間稼働を実施して年間200万ドルの利益を稼ぎ出した。翌1881年、同社を改編してカーネギーブラザーズとした。1882年には、ヘンリー・C・フリックのコークス製造会社を買収、それ以来フリックは、最も信頼できる片腕となった。

 1889年、カーネギーは鉄鋼の製造法の研究をさらに続けるべくニューヨークに移った。この年、6ヵ月間、家族と一緒にスコットランドですごしてもいる。カーネギーは自分が不在の間は、フリックにカーネギーブラザーズのトップとして会社の日常業務を任せていた。フリックがいざ経営を始めてみると、ピッツバーグに点在する個々の製鉄所は、ばらばらな存在の集合体にすぎないことに気がついた。

 そこで、これらのばらばらになった糸を束ねて、まともな組織に編み直した。これがのちに世界最大の製鉄会社にまで成長する。具体的には、経営の権限を中央に集中させ、生産活動を統合した。同社はカーネギー製鉄会社に発展し、その株式時価総額は2500万ドルにまで上昇する。

転機と決断

 カーネギーにとって運が悪かったのは、フリックもカーネギー同様、アメリカの企業の歴史上で最も有名な企業の1つを経営していたことだ。コストの削減と利益の急増をもくろんで、フリックは出来高払いの賃金を引き下げた。

 これに激怒した合同鉄鋼労働組合は、カーネギーのホームステッド製鉄所の組合員にストライキの指令を出した。フリックは、交渉によって事態の収拾を図ろうとするどころか、反対に300人のスト破りの労働者を投入して火に油をそそいでしまう。

 ストライキ当日、スト破りの労働者たちがはしけに乗ってモノンガヒーラ川を下ってきたとき、スト側の従業員との衝突が勃発し、地獄のような光景が広がった。双方互角の争いが一日中続けられ、結局10人が死亡、60人が負傷して、ホームステッドには戒厳令が布かれた。

 その当時、スコットランドに滞在していたカーネギーは激怒した。それは自分が仕切っていた会社が崩壊したというだけの話ではなく、スト破りをしてはならないというカーネギーの明確な指示に対する背信行為だったからだ。

 カーネギーにとって、それは倫理の問題だった。個人としての思いがどうであれ、オーナー経営者として最終的な責任を負うべき立場にあったために、この不祥事以後、何年にもわたり、その名声についてまわる労働者の黒い血の跡に苦しまなければならなかった。

 カーネギーがフリックを公然と非難することはなかったものの、2人の関係は決してもとに戻ることはなかった。同社は発展を続け、年間の鉄鋼生産量は1889年の33万2111トンから1899年には266万3412トンとなり、同様に利益も200万ドルから4000万ドルにまで増加した。ところが、両者の関係が冷えきってしまったために、カーネギーは1889年、時機を見計らって1500万ドルの高額でフリックの株式を買い取った。