前回は、シュンペーターを財務大臣に推したオットー・バウアーを紹介した。今回は、この2人が対立し、それぞれ財務相と外相を退任していく過程をみていくことにしよう。
まず、バウアーとシュンペーターの閣僚就任から退任までの時間軸をご覧いただきたい。1919年3月から10月までが二人の対立の時期で、シュンペーターは結局、在任7ヵ月でオーストリア共和国財務大臣の座を去ることになる。
●1918年11月12日 バウアー、外務大臣(レンナー臨時内閣)就任
◎1919年1月18日 パリ講和会議始まる
●1919年3月15日 シュンペーター、財務大臣(第2次レンナー内閣)就任、バウアー再任
◎1919年6月28日 ベルサイユ条約(対ドイツ講和条約)調印
●1919年7月26日 バウアー 外務大臣を辞任
◎1919年9月10日 サンジェルマン条約(対オーストリア講和条約)調印
●1919年10月17日 シュンペーター、財務大臣を辞任
この間、戦勝連合国とドイツ、オーストリアなどとのパリ講和会議が開かれている。サンジェルマン条約が調印され、オーストリア国民議会が批准するまでの重大な局面にあった。
ドイツとのアンシュルス路線を目指す
バウアーの民族独立構想
2人の対立には、戦後経済危機をめぐる社会民主主義政策と自由主義政策の衝突という側面がある。今日の世界経済危機対策にも通底する議論だ。
今回は第1の対立点、「ドイツとのアンシュルス(合邦)」によるオーストリアの危機脱出策について説明する。(第2の対立点「社会化」については次回詳述する)
バウアーは敗戦前からアンシュルスを主張し、シュンペーターは敗戦前からドイツとの経済的連携を否定していた。これが根本的な対立点である。
シュンペーターはバウアーとの論争に破れ、外国資本導入をめぐるスキャンダルをきっかけとして辞任に追い込まれた、という通説があるが、上記の就任から辞任への流れを見てわかるように、実はバウアーのほうが先に閣僚を辞任している。けっして、バウアーが路線闘争に勝ち、シュンペーターが負けたわけでもない。
現在の日本や欧州各国と同じように、当時のオーストリアも政党が多く、ほとんどの時期で連立政権である。1919年2月、第一次大戦後初の選挙でも、社会民主党は比較第一党であり、保守派のキリスト教社会党との連立政権(第2次レンナー内閣)となった(敗戦直後のレンナー首班による臨時内閣は分立した全政党による救国内閣だった)。
いずれの政党にも属していないグラーツ大学経済学教授のシュンペーターが、自説を閣議や議会で通すことはそもそも困難である。一方、バウアーは閣僚辞任後も政権与党の社会民主党指導者であり、発言力ははるかに大きかったわけだ。