無条件で自分はOKだと
思えることの重要さ

神保 存在のレベル、ですか?

岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者。1956年京都生まれ、京都在住。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。精力的にアドラー心理学や古代哲学の執筆・講演活動、そして精神科医院などで多くの「青年」のカウンセリングを行う。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。訳書にアルフレッド・アドラーの『個人心理学講義』『人はなぜ神経症になるのか』、著書に『アドラー心理学入門』など多数。古賀史健氏との共著『嫌われる勇気』では原案を担当。

岸見 たとえば僕は病気をしたのでよくわかるのですが、まったく身動きがとれない寝たきりの状態でも、なお人の役に立てていると思うことは可能です。誰でもそうした存在のレベルで他者貢献できることを感じて欲しいのです。ただ、これにはかなり勇気が必要です。何かをして他者の役に立てたと感じることは容易ですが、何もできない状態でそれを感じるわけですから。

神保 いるだけで?

岸見 はい。ですが、そう思えない人は他者に対しても行為レベルでしか価値判断をしないことが多い。「あの人は役立たずだ。生産性に何ら貢献していない」と切り捨ててしまいがちです。

神保 行為のレベルで価値を判断するのは必ずしもよくないと?

岸見 それだけで判断するのはよくないでしょう。

宮台真司(以下、宮台) E・H・エリクソンという心理学者が提唱した「基本的信頼(basic trust)」という概念があります。これが岸見先生がおっしゃったことに重なるんですね。「basic trust」は、何かをしたからではなく、つまり条件付き承認とは無関係に、無条件で自分はOKだと思えるということです。
 「basic trust」を持たない人は、それを埋め合わせるために過剰同調が生じがちです。つまり、他者に迎合して──つまり他者の課題を自己の課題とすることで──承認されよう、嫌われないようにしようと思う。その意味で、自立にとっての基本条件は、無条件に「自分はOK」だと思えること。つまり存在そのものの肯定です。
 「何かをしたから承認される」という条件つき承認の意識を持つ人は、ギブ&テイク的に見返りを求めます。つまり損得勘定が動機付けになります。こうした「ほめて欲しくて何かをする人」は、ほめてもらえないと相手を恨みます。このように他人を恨む人は、自分を条件付きでしか承認できない人ですが、他者をも条件付きでしか承認できません。

神保 行為なくして自分が受け入れられる状況をつくるのに苦労している人は多いと思います。他者に何かしてあげることで仲間になることはあっても、単に存在するだけでいいというのはなかなか難しいでしょう。そうなればいいなと思いつつも、うまくなれていない人が多いのでは?

宮台 近現代社会がそうした方向にシフトしてきた事実を、社会学者タルコット・パーソンズは「業績本位の社会にシフトした」と言います。能力を発揮することが承認の条件となるメリトクラシー社会になったということ。社会思想家ユルゲン・ハーバーマスはそれを社会領域の問題だとします。業績が承認の条件となる〈システム〉と、そうではない〈生活世界〉です。
 ハーバーマスによれば、近代化とは、〈生活世界〉が〈システム〉と置き換わる過程です。昭和34年生まれの僕が幼少の時分、まだ昔ながらの共同体=〈生活世界〉があって、ちょっと頭が変な人や傍若無人のヤクザもいました。学級にヤクザの子もいたのでそうした人と繋がる機会もあり、父親よりもヤクザのほうが格好いいと思ったりした。
 あるとき、僕がいつも満票で学級委員に選ばれるのは、ヤクザの子たちが僕のために周囲を脅していたからだと分かりました。上海で生まれ育ったバタ臭い僕の母が、しばしば彼らを家に呼んで晩飯を食べさせたり、高い玩具で遊ばせたりしていたからです。父の仕事で転校だらけだった僕のために、母が考えたことでした。
 そんなこんなで、本当はヤクザの子みたいに喧嘩が強いガキ大将になりたいと思ったものです。ダイバーシティ(diversity)という言葉があって「多様性」と訳しますが、僕は嫌いで、「何でもあり」と訳します。たとえば、他者一般への基本的信頼があれば、細かいことは気にせず「何でもあり」に耐えられる。基本的信頼こそダイバーシティへの鍵です。
 逆に言えば、「何でもあり」を邪魔するのは、細かいことを気にするヘタレ。そうしたヘタレはたいてい条件付き承認しか経験してきておらず、承認されたいがゆえの損得勘定で右往左往する作法を大人になっても継続しがちです。こうしたヘタレが多いと多様性フォビアが蔓延しがちで、社会はダイバーシティ=「何でもあり」から遠ざかります。