普通であることの勇気
神保 続いては『嫌われる勇気』に出てくる3つのキーワードに沿って、アドラー心理学として「幸せに生きるためのヒント」を頂ければと思います。その3つとは「普通であることの勇気」「人生の嘘」「今この瞬間を生きる」です。まずは最初の「普通であることの勇気」ですが、これはアドラー的にはどのような意味になるんでしょうか?
ビデオジャーナリスト/ビデオニュース・ドットコム代表。1961年東京生まれ。コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了。AP通信記者を経て93年に独立。99年11月、日本初のニュース専門インターネット放送局ビデオニュース・ドットコムを設立。著書に『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』『ビデオジャーナリズム―カメラを持って世界に飛び出そう』『ツバル-地球温暖化に沈む国』『地雷リポート』、訳書に『食の終焉』などがある。ビデオジャーナリスト神保哲生のブログ
岸見 まず、人というのは特別に良くなろうとしがちな存在です。それに失敗すると逆に特別に悪くなろうとする。そのどちらでもなくていいということです。
この言葉を聞くと思い出すのは、私が初めてアドラー心理学の講演を聴いたときのことです。1989年にアドラーの孫弟子であるオスカー・クリステンセンの講演を聴いたのです。そのとき私は通訳で呼ばれていたのに、いっこうに出番がないまま講演会が終わってしまいました。そこで質疑応答になったとき、なぜか英語で質問をしようと思ったのです。クリステンセンは英語で答えてくれたのですが、そのあと自分の学生時代の話をしました。
アドラーの弟子であるルドルフ・ドライカースからレポートの課題を出されたときの話です。課題は「フロイト心理学とアドラー心理学の違いについて2ページで論じなさい」というもの。クリステンセンは懸命に20ページも書いて提出したところ、ドライカースに呼び出されたそうです。「あなたは、なぜこのレポートを書いたのですか?」と。クリステンセンが「アドラー心理学に非常に関心があったから」と答えたところ、「いや違う。あなたはただ私にimpress(印象づけ)しようとしたのだ」と。たしかに普通ならそんなに書かないですよね。ドライカースは「君は特別良く見られたいと思い、他の学生と違うことを教師である私に印象づけようとしたのだ」と言ったそうです。そして「そんなことをしなくても、君は今のままの君でいいのです」と。
神保 「You are good enough now」と言われたんですね。
岸見 この話は、僕に向けられたものだったと思います。「あなたは別に英語がそれほど得意じゃないのだから、他の人と同じように日本語で質問すればいいのです。なぜわざわざ英語で質問したのですか?」という意味でしょう。そのとき僕は、それまでの人生でずいぶん背伸びして自分を良く見せようと思って生きてきたことに気づきました。「そうか、自分は特別であろうとしていたんだ」とわかり、それまでこだわっていたことがまったく消えてしまった。アドラーの教えのなかでも私が本当にすぐ納得できたのは、この「普通であればいい」ということです。
神保 ですが「普通」は「平凡」という意味に聞こえてしまって、それが嫌な人も多そうですね。
岸見 たとえば自己紹介を求められたとき、肩書きから始める人がいますね。ああいう人たちは「普通である勇気」がないのだと思います。すごい経歴がないと自分を認めてもらえないと思っている人というのは勇気をくじかれているのです。
神保 日本人は「何をやっているんですか?」と聞かれると会社名を言うことが多いですね。会社で経理部にいれば「経理の仕事をやっています」と言えばよいのに。宮台さん、この「普通であることの勇気」についてはいかがですか?
宮台 誤解されやすいのは、「ありのままでいい」というのとは少し違うってことですね。
神保 たしかにアドラー心理学は「人は変われる」という話でした。
宮台 細かいことを気にする人たちは、要するに「もっと大事なことがある」ということが分かっていない。もちろん人から良く見られたいというのは誰にでもあります。嫌われるよりは好かれたい。尊敬されないよりは尊敬されたい。しかしやはり優先順位が大事なので、人に良く見られたいというのが優先順位の筆頭にくるのはおかしいわけです。
神保 自分の人生を生きていないと。
宮台 一つ例を出しましょう。少し前にロシア抜きのG7がありました。その際、安倍首相はテレビカメラが回った各国首脳との懇談で同時通訳を付けず、これを新聞社のデスククラスが嘲笑の的にしていました。宮澤喜一元首相があれだけ英語ができても必ず通訳を入れたのは、通訳が喋る間にじっくり考えられるからです。実に合理的な熟慮です。
安倍首相の英語力は巷の噂どおり。それで僕はあれを見て、痛々しくて哀しくなりました。問題は、安倍本人を含めて、痛々しいと思わない人たちが大勢いるということ。あれを格好いいと感じる輩や、自分も同じように振る舞いたいと思う輩が、大勢いるということ。そうした次元で政治家の行為を評価する〈感情の劣化〉がポピュリズムを駆動します。