どうすれば承認欲求を
克服できるのか

神保 たしかに、自意識過剰、劣等感、優越感、承認欲求といったものを克服できない人は多いと思います。では「普通であることの勇気」を手に入れ、承認欲求を克服するためにはどうしたらいいのでしょう。

岸見 同時通訳を付けないようなことをアドラーは「虚栄心」と言います。そういう人たちは、じつは「優越コンプレックス」を持っている。優越コンプレックスは劣等コンプレックスの裏返しなので自分を良くは見せないし、本当に優れている人は自分が優れていることを誇示しない──まずはそのあたりの気づきから始めるべきでしょう。「こんなことは少しも格好よくない」とわかれば、やがてそういうことから離れていけると思います。

神保 ただ、実際にはそうした虚栄心をすごいと思ってくれる人がいるわけですよね。

宮台真司(みやだい・しんじ)
首都大学東京教授/社会学者。1959年仙台生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京都立大学助教授、首都大学東京准教授を経て現職。専門は社会システム論。博士論文は『権力の予期理論』。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で著書多数。主な著作に『制服少女たちの選択』『終わりなき日常を生きろ』『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』『14歳からの社会学』『日本の難点』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』などがある。宮台真司オフィシャルブログ

宮台 そうした虚栄心に満ちた輩を賞賛する〈感情の劣化〉を被った人だらけなのが昨今です。だから子どもが成長する環境としては問題が多い。前回も話したけれど、「立派か卑怯か」という語彙が死滅したコミュニケーション環境に育つのは、大きなハンディです。放っておいたらダメで、別のもので補わない限り、勇気ある存在になれません。
 岸見先生には釈迦に説法ですが、初期ギリシアは〈依存〉を嫌って〈自立〉を推奨します。全能の神からの罰を恐れてちゃんとするというのはダメ。罰がなければちゃんとしないからです。そういう損得勘定と関係なく、自らちゃんとしようと思える人間が善い。そういう人間を育てるにはどうすればいいか。つまり初期ギリシアの教育観とは何か。
前回紹介したジョージ・ハーバート・ミードはプラグマティストです。プラグマティストとは「内なる光」を灯すことを使命と心得る者です。「内なる光」とは損得勘定を超えて湧き上がる力です。僕の言葉では〈自発性〉ならぬ〈内発性〉です。この観念の由来は、「内なる光」という言葉を使ったラルフ・ウォルドー・エマソンのようにキリスト教を経由するにせよ、初期ギリシアです。
 ミードの「I/Me」論も初期ギリシアの教育観を引き継ぎます。即ち「立派か卑怯か」「立派か浅ましいか」という二項図式を使った「賞賛と揶揄」です。初期ギリシアの最大価値は「死を恐れずポリスに貢献する勇気ある兵士」という名誉です。「賞賛と揶揄」も賞罰ですが、賞罰を気にしない者を賞賛し、気にする者を揶揄する。特殊な賞罰です。
 かかる特殊な賞罰の目的は明らかです。賞罰の如き損得勘定を気にせず、理不尽や不条理にそのまま体と心を開いて立ち向かう、〈自立〉した英雄を育てること。つまり、子ども時代には「卑怯なヤツと思われたくない」という損得勘定から出発させ、やがて人にどう思われるかに関係なく「自分は立派でありたい」と願う大人へと仕立て上げます。
 そうした立派な在り方が人間本来の姿なのに、ゴミやヨゴレがついてダメな大人になる。だから、ゴミやヨゴレに抗って人間本来の姿(可能態)を引き出すのが、初期ギリシアの教育です。だから、英語のエデュケーションにせよ、ドイツ語のエアツーウンクにせよ、教育という言葉は、ギリシア由来の「引き出す」という観念を保っているわけです。