岸見 存在の次元で認めることができれば、あとは何でもプラスなのです。とにかく生きている状態がOKだと思えれば、子どもが学校へ行かなくてもOKです。ベッドの中で冷たくなられているわけじゃない。何でも引き算してしまえば多くの人はマイナスでしか採点されません。そういう社会が健全だとは僕は思わない。そう考えるとアドラー心理学は強者の心理学とはいえませんよね。

宮台 全然違いますよね。関連しますが、性愛系ワークショップをやっていて気になるのは、相手にイエスと言わせようと細かいことを気にして、ビビる人が多いこと。僕は「気に入られようとしてビビッてる人が君の目の前にいたらどう思う?」と問うことにしています。間違いなく嫌な感じがするはず。ハッピーに感じる人は一人もいない。
 基本的信頼の不足ゆえに、損得勘定で右往左往する「細かい輩」は、人の好意を買おうと一喜一憂します。これは他者の内面を慮っていると見えて、実は違う。実際には目の前の相手を嫌な気持ちにさせるので全くモテないし、マクロに考えれば、こうしたモテない輩で溢れる社会は、既得権益を動かせない「原発をやめられない社会」になります。
前回「立派か卑怯か」の二項図式が廃れた話をしました。「立派な人」は細かいことを気にしない。僕は昔から、日本初の右翼団体「玄洋社」創設者の頭山満という人物を持ち出します。彼は「右か左かはどうでもいい、お前の心意気に打たれた」「イデオロギーは知らないが、意気に感じた」と、世直しを志す若い衆を食客にします。そこにヒントがあります。

岸見 課題をきっちり分けられれば、細かいことにはこだわらなくて済みます。極端な例ですが、僕の友だちの息子さんが高校生のとき「2年生になった」と親に言ったそうです。すると父親が「そうか、どこの中学だったかな」と(笑)。無関心と言われそうですが、子どもの課題と自分の課題を分けられれば、細かいことにはこだわらなくてよい。そして、もっと大事なことに関心があるという信頼があれば、親子関係は大丈夫なはずです。課題の分離ができない親は、基本的に子どもを信頼していません。「私が言わなければ、この子は永遠に勉強しない」と思っている。そんなことはあり得ないのです。