まだ体が絞れてなかったし、体重を落としてドンからボーナスをせしめたかったから、脂肪を燃焼するスープを飲んだ。そのあとのメインコースは女だ。日本の女はとてもシャイで内向的だったが、運よく、奔放な女たちに出会うことができた。

タイソンの腕をとっているのが悪徳プロモーターとして名高いドン・キング。当時、ヘビー級において絶大な影響力を持っていた。(Photo:© Charlie Blagdon/Bettmann/Corbis)

 カネは有り余っていたから、女たちにはチップをはずんだ。感謝してくれたにちがいない。帰ってから友達を連れてきたのもいたからな。

「友達があなたに会いたいって言ってるの、ミスター・タイソン。いっしょに来たいって」

 前回トニー・タッブス戦で来たとき知り合った若い日本人ともデートしていた。ロビンが買い物に出かけたすきに、彼女と部屋に向かったもんだ。

 今回も同じ要領でやった。俺のフロアには人が多すぎたし、ドンにもローリーにもジョンにもアンソニーにも干渉させたくなかった。知られたら、あいつらは彼女を脅したかもしれない。彼女は人前ではすごくシャイだった。初めて会ってからの2年間で、すごく大人になっていた。

 つまり、それがダグラス戦の練習だったんだ。あとはときどきトレーニング場に顔を見せて、運動したりスパーリングしたりする程度。試合の10日前にグレッグ・ペイジとスパーリングをやり、うっかり右のフックをもらってダウンした。

「何やってるんだ?」と、あとからグレッグに言われたよ。

 2、3日後、ドンが1人60ドルの有料公開スパーを開いた。あのときは有料だってことさえ知らなかった。2ラウンドの予定だったが、俺の調子が悪いと見てアーロン・スノーウェルとジェイが1ラウンドで止め、公開スパーを打ち切った。ドンはかんかんだった。ひと儲けしたかったんだ。俺の状態があんなに悪いなんて知らなくて。ボクシングにはズブの素人だったからな。調子の良し悪しの区別もつかなかった。

 試合前日、俺の体重は220ポンド1/2[約100キロ]。デビュー以来いちばん重い数字だった。それでもボーナスをせしめた。そして、試合の前の晩だというのに、何人もの女と楽しんだ。

 俺は知らなかったが、ダグラスにはこの試合に懸ける理由があった。1989年の7月、あいつは信仰を新たにした。その後、妻に捨てられ、産みの母親は病気の末期状態に陥り、キャンプ中の1月上旬に亡くなった。その話は全然知らなかったし、関心もなかった。HBOは母親のために戦うダグラスを大きく取り上げていたが、当時の俺の傲慢さを考えると、その話を聞いていたら、試合の夜は母親のところに送り込んでやるとか言っていただろう。