神に嫉妬された男

 しかし、バスターの名誉を傷つけるつもりはない。あの日のあいつは勇気も根性もすばらしかった。こっちの強いパンチも入っていた。ほかのやつらだったらスペースシャトルまで吹き飛んだだろう。俺は疲れきっていて、次のラウンドに追い打ちをかけられなかった。逆に向こうはダメージから回復した。10ラウンド開始直後、右のストレートをあごに決めたが、向こうは右のアッパーを皮切りに、首から上へ連打を浴びせてきた。パンチを感じないくらい感覚が麻痺していたが、パンチの音は聞こえていた。平衡感覚を失い、気がつくとダウンしていた。

 キャンバスに倒れ、レフェリーがカウントを取っているあいだに口からこぼれたマウスピースをつかみ、よろめく足で立ち上がろうとした。純粋な本能で動いていた。ふらふらだった。レフェリーが10を数え、俺を抱きかかえた。朦朧(もうろう)としたままコーナーへ戻る。マウスピースを噛んでいたが、それが何かもわかっていなかった。

「何があったんだ?」と、セコンドに訊いた。

「レフェリーがカウントアウトしたよ、チャンプ」と、アーロンが言った。

 当然か、と思った。序盤からボロボロだった。まだ頭がじんじんして、HBOの試合後のインタビューにも応じなかった。少なくとも1回は脳震盪(のうしんとう)を起こしていたにちがいない。

 ドンはすぐさまWBC、WBAの関係者に呼びかけて話し合った。そのあと独自に記者会見を開いた。

「本当は最初のダウンで決まっていたんだから、あとのダウンは無効だ」とまくしたてた。WBCのホセ・スライマン会長はレフェリーがタイムキーパーからカウントを引き継がなかったとして、王者認定を一時保留にした。レフェリーもミスを認めた。スライマンはただちに再戦を求めた。そのころには、俺も記者会見に加われるくらい意識を回復していた。ふさがった目を隠すためにサングラスをかけ、腫れた顔を白い圧定布で押さえていた。

「前から俺のことは知っているだろう。結果に不平を言ったり、文句を垂れたりはしない。だが俺はKOされる前に相手をKOしていた。世界チャンピオンでいたい。若い子たちはみんなそれを求めている」と言った。

 ホテルの部屋に戻った。女はいなかった。もう世界ヘビー級チャンピオンでなくなった――奇妙な感覚だった。それでも頭の中では、あれはたまたまだと思っていた。神様は小動物を選ばない、神の稲妻が撃つのは最大の動物だけで、神様を手こずらせるのは彼らだけだ。神様は小動物に狼狽したりしない。神様は大きな動物が王座に君臨しないよう食い止めようとする。ベッドに横たわったまま、大きくなりすぎた俺に神様が嫉妬したんだと思った。

(続く)