山手線の外側に位置する高級住宅地を数え上げるとき、田園調布と並んで名前が出てくるのが「山王のお屋敷街」である。名にし負う大田区の住宅街の中でも、この土地の持つステイタスは格別。緑に囲まれた高台という、かつて文学者たちに愛された住環境はいまも変わっていない。

 JR京浜東北線の大森駅に降り立ったとき、東急系のデパートとホテルが目立つ東口側に目を奪われると、この街を見失うことになりかねない。山王――かつて田園調布と並び称され、いまも大田区東部で屈指のステイタスを保つ高級住宅地は、大森駅の西側に、なだらかな台地として展開する。

 山王は典型的な大田区の高級住宅地である、といわれる。その属性は、他に名前があがる久が原、南雪谷などのお屋敷町と共通、つまり高台にある立地がその第1の理由である。

 南側にひとしく多摩川を抱える大田区にあっては、つい近年までは水の被害、河川の氾濫は無視できないものだった。その危惧から常に逃れうる存在が、これら高台の住宅地だったのである。高地と低地、という大田区の2つの立地から生じるクラス感は、完全な治水のなされた今日も残っている。 加えて山王は、京浜東北線によって分けられる「海の手」と「山の手」の境界線に接している。見上げるとそこにある、といった立地条件にあり、人々の羨望を自然と集めるかたちになったのである。

 田園調布の名声が突出した感のある外野の「土地柄」評に比べて、山王に対する憧憬は地元の人々の間に殊に強い。区の西端に位置する田園調布と、東の山王といった2つの頂点でとらえられている、といえるだろう。そして住民の定着率が高い区のことであるから、その評価は揺るぐことがない。

関東大震災後、安全を求めて
多くの人が引っ越してきた街

 「馬込文士村」ゾーンとして山王がそのグレードを得るに至ったのは、立地だけでなく、歴史的背景によるところも大きい。

 もともと山王を含む一帯は、幕府領や旗本領であったところが多い。3丁目の善慶寺にある史跡「新井塾義民六人衆の墓」などは、そうした時代の証言者である。この6人とは、1677年、年貢の苦しさを将軍綱吉に直訴しようとして打ち首になった名主たち。

 この頃、一帯は江戸に食料を供給する近郊農村であり、低地に水田を広げる新井宿という名の村であった。そして村の北側を占める柴山が、現在の山王の高台である。めぼうしいものは山王社(現在の日枝神社)くらいという風景が、近代に至るまで続く。

 明治5年の鉄道開通(新橋~横浜間)と、それに続く大森駅の開業(明治9年)によって、土地の歴史は動き始める。住宅地としての可能性が付加されたのである。そして大正12年の関東大震災によって、状況は決定的な変化を見せる。