「いくら謝っても、中国人に許してもらえないのなら、もう中国人の気持ちを忖度せず、言いたいことを徹底的に主張しよう」という気持ちになっても不思議ではない。ただそうなると、中国人の間に「日本人が自分の過ちをなぜ認めないか理解できない」という反発が湧き上がってしまう。

中国内で日本の戦後40年の
評価が欠落している理由

 この問題を考える際、多くの論客はある視点を欠いていると筆者は思う。数十年間におよぶ国民交流のギャップが、歴史認識問題を巡る対立の根源であろう。戦争終結から1970年代末まで、日本の訪中団、中国の訪日団が幾度か組成されたが、本当の意味での日中両国民の交流は殆どできていなかった。

 その背景には、中国に報道の自由がなく、日本に関する報道が政府にすべて牛耳られていたことが挙げられる。当時の中国政府の対日政策の目標は日中国交正常化の実現であり、民間交流は、対日友好工作を働きかける手段に過ぎなかった。それでも、戦争によって反日的な世論が幅広く形成されていた中国では、共産党の絶大な権力をもってしても、日中国交正常化の実現には国民の納得を得る必要があった。

 そのため、1952年以降、中国政府は新聞、ラジオ、テレビ、教育など、あらゆる手段を使って国民に対する説得工作を行った。それは主として毛沢東の「二分論」思想に基づき、A級戦犯をはじとする軍国主義者、日本の支配階級に戦争発動の責任を負わせ、一般国民は被害者であるという概念を国民に徹底的に教育した。

 ゆえに日本政府を一時的に批判することはあっても、日本国民に関する報道は、基本的に中国に対して友好的、善良で勤勉など、プラス面を伝えるものであった。半面、戦後の日本における戦争に対する反省の気持ちや復興過程など、1945年から1970年代にかけての日本の実情の大半は、中国の国民に殆ど知らされなかった。

 1978年の改革・開放後、日本の映画、ドラマ、アニメを通じて、中国人はようやく日本の実像に触れることが可能になったと言える。また、1980年代半ばになると、日本を含む海外の情報が中国のメディアでも多く報道されるようになり、報道の自由(共産党による制限は今なお続いているものの)が徐々に認められるようになった。

 これに対して、当時の日本は1985年に戦後40周年の節目を迎えることもあり、戦後体制からの転換を図ろうとしていた。戦争に対する反省が一段落して、強力な経済力を基礎に、戦後体制とは異なる国家ビジョンを描こうとしたのである。