「妻も自分で努力せなあかん」
従業員の妻の教育まで引き受ける夫人

 明治29(1896)年、むめのは井植家の次女として、兵庫県淡路島浦村(現在の淡路市)に生まれました。小学校卒業後、大阪・船場の旧家で奉公し、大正4(1915)年、19歳で幸之助と見合い結婚しました。幸之助が創業した松下電気器具製作所の草創期には、経理事務を一手に引き受ける一方、住み込み従業員の食事や風呂の世話などをしながら事業を支え、“社員の母”と慕われました。

 もっとも、生まれつき陽性で外交的なむめのに対して、幸之助の性格はどちらかといえば陰性で内向的。この好対照は変えようのない事実でした。だとしたら、自分の存在が経営者としての幸之助の未来にマイナスに作用するのではないか。「わても、潮時かもしれん」――そう考えたむめのは、本店・工場が現在の門真市に移転したのを機に、松下電器の一切の要職から手を引きました。

 その後、むめのは松下電器婦人会を組織し、工場見学を実施するなど従業員の妻たちの教育を引き受けるようになりました。婦人会はやがて幹部社員の妻を対象とする「みどり会」と改名され、むめの自身が会長に就任。「主人に後れをとらない妻を育てる」ことに目的に、幸之助を側面から支えるようになります。

〈主人の仕事を陰ながら支えるのが妻の務めというもんや。でも、それだけやない。妻も自分で努力をせんとあかん。主人の成長に、自分もついていく、ということや。そうせんと、主人には恥ずかしい妻になってしまう。主人がひけめを感じない、邪魔にならない妻にならんとあかん〉(195ページ)

 この間、夫妻は二人の子どもを授かります。長女・幸子と長男・幸一です。むめのは子育てに専念し、商売は順風満帆。まさに夫妻は絶頂期を迎えていましたが、好事魔多し。健康優良児として表彰された幸一が脳症を起こし、たった7ヵ月の短い人生を終えてしまったのです。深い悲しみを背負いながら、夫妻の愛情が幸子に注がれたのは想像に難くありません。

 幸子の誕生で会社に多くの幸運が招かれた―ー少なくとも両親はそう信じていました。実際、創業第一号製品「アタッチメント・プラグ」、第二号製品「二股ソケット」が立て続けに人気を博し、さらには、松下電器の名前を全国に知らしめることになる「砲弾型電池式自転車ランプ」が大ヒット商品となりました。本店・工場の建設が実現したのも、幸子が生まれたあとのことでした。

 その幸子もあっという間に年頃になり、20歳で婿養子を迎えることが決まりました。しかし、むめのはこの縁談に複雑な心境を隠せませんでした。

 婿養子の正治は、伯爵で日本画家だった平田栄二の次男として生まれ、東京帝国大学法学部卒業とともに三井銀行に入った華族出のエリート銀行員でした。正治の祖父の東助は明治時代の有能な内務官僚で、西園寺公望、金子堅太郎とともに伊藤博文の欧州旅行に随行し、日本の憲法制度調査に辣腕を振るいました。また、母親の静子も前田利昭子爵の令嬢という名門の出でした。

 太平洋戦争前の日本はまだまだ階級意識の強い社会であり、華族と平民の結婚は世間を驚かせました。松下家の婿取りの狙いが閨閥づくりにあったとはいえ、淡路島の船乗りの娘だったむめのにとっては、重すぎる荷物だったのです。

〈なんで、個人のことをそんなに調べはるんやろ〉
 結婚にあたっては、むめのには心外なことがたくさんあった。宮内省は、松下家の家族、親族、財産にいたるまで、詳細な調査を行った。西宮市役所を訪れた宮内省の役人は、市役所始まって以来と言われるほど、徹底的な調査を行った。
 華族の血を金で買ったという誤解を避けるため、幸之助夫妻も平田家の財産状況をつぶさに調査したので、その点ではお互い様といえた。家屋敷地五〇〇坪、田畑数百町歩。平田家には十分な財産があった。ようやく、婚約は成立した。(207ページ)