三菱自動車は元来、三菱造船から三菱重工に至る三菱グループの自動車部門の流れを汲み、乗用車では三菱500やミニカ、商用車では「ふそう」ブランドを擁する、幅広いジャンルの総合自動車メーカーだった。

 1960年代半ばから1970年代の自動車資本自由化の流れを受けて、1970年に米クライスラーと資本提携すると共に、三菱重工から独立して三菱自動車工業・三菱自動車販売が誕生。筆者は、自動車担当記者として三菱自動車の変遷をウォッチしてきたが、三菱自動車ほどその浮沈が激しかった自動車メーカーは他にないという印象を持っている。同社にとって1990年代前半までは飛躍の時期であり、独自の地位を築いてきた。だが、1996年に米国工場で起きたセクハラ事件でみそを付けたのをきっかけに、苦闘の道を歩むことになる。

 もともと三菱自動車は、「新司偵」(高性能偵察機)の設計責任者だった2代目社長の久保富夫氏をはじめ、初期の頃は曽根嘉年氏、東条輝雄氏と航空機の技術屋出身のトップが続いた。自動車でも発揮されたその技術力は、乗用車・トラック両部門で定評があり、さらに何と言っても旧三菱財閥の三菱グループに支えられているという強みがあった。

トヨタ、日産の背中が見えた?
とにかく強かった三菱の総合力

 筆者は1970年代半ば頃、トヨタの国内営業のトップだったトヨタ自販の首脳から、「トヨタが国内販売で怖いのは、日産よりも三菱グループが後ろ盾の三菱自動車だね」と打ち明けられたこともある。

 確かに、三菱自動車の総合的な販売網は強かった。日本国内で1978年に、「ギャラン店」に次いで「カープラザ店」の販売チャネルをセットアップし、ギャラン・ランサーとミラージュといった主力車種に加えて、軽自動車やパジェロまで、幅広い商品群を推進した。また商用車も、小型トラック「キャンター」でいすゞと熾烈なトップ争いを、さらに「ふそう店」では中型・大型トラック分野で日野とトップ争いを繰り広げるなど、独自の地位を確立していった。

 一方海外では、積極的な国際化戦略を推進。1973年に韓国・現代自動車への技術援助契約を通じて技術供与を行なった。また1985年には「不平等契約」とされながらもクライスラーと資本提携を行ない、米国販売へ進出。クライスラーとの合弁生産にも乗り出し、「ダイヤモンド・スター・モーターズ」(DSM)を設立した。さらにアセアンでは、マレーシア政府との合弁生産会社「プロトン」を設立した。トラックを皮切りとして、中国にも進出した。まさに、乗用車からトラックまで手がける総合メーカーとしての三菱自動車の存在感を、強めたのである。