瀕死の状態から再建の道へ
益子体制が背負った重い課題

 今から10年前の2005年に経営危機に瀕した三菱自動車は、紆余曲折を経て、三菱重工業、三菱商事、東京三菱銀行の三菱グループ主力3企業による支援の下で企業再生への道をスタートさせた。再建を主導する社長として、三菱商事の自動車事業本部長だった益子修氏に白羽の矢が立ち、益子体制でまさに瀕死の状態から再建の道へ歩み出したのである。

 益子・三菱自工体制は、「三菱ふそうトラック・バス」が独ダイムラー傘下で独立するなか、スリム化した乗用車事業の効率化を進めた。中大型セダンのギャラン、ディアマンテ、軽乗用車セダンのミニカからの撤退などである。海外生産においても、欧州生産子会社のネッドカーを1ユーロでVDLグループに売却するなど話題を呼んだ。それに対して、アウトランダーなどSUV(スポーツ・ユーティリティ・ビークル)や軽自動車EVなどに開発を集中していった。

 一方で益子社長は、三菱商事時代からインドネシアや韓国などで自動車ビジネスに長く携わった経験を生かし、アセアン地域での生産・販売強化を積極的に進めた。タイを中心としたアジアでの三菱車の売上と利益は、全体の5割から6割を占めるに至っている。タイで生産する「ミラージュ」の復活は、タイ製で日本市場にも投入された。

 かたや日産との包括事業提携により、軽自動車のOEM供給を進展させ、軽自動車の共同開発合弁会社NMKUを設立。また、仏PSA(プジョー・シトロエン)へのアウトランダーのOEM供給ビジネスも具体化させていった。また、フィアットグループとなったかつての提携先・クライスラーとも、新たな業務提携を進めている。

 重工・商事・銀行という三菱グループによる中核支援下では、経営トップへの人的な派遣も行われた。三菱自動車の社員には節約令が出され、給与面でも我慢を強いられた。開発部門で人材が流出するという厳しい局面もあった。

 こうしたなかで、2013年度には2期連続の最高益を確保すると共に、2014年3月末に三菱グループ3社の優先株を処理することができた。同決算で16年半ぶりの復配という花道をつくって、益子社長は昨年6月、プロパーの相川哲郎社長へとバトンを渡した。益子体制は、実に9年間にわたる再建の道のりだった。

 相川哲郎社長は、三菱自動車の開発畑出身で、役員入りしてからも国内営業を経験し、「社長候補」と早くから言われていた。実父は、かつて三菱重工業社長として名を馳せた相川賢太郎氏である。