日本中が揺れた、強行採決をめぐる安保闘争

 そして1960年2月より、国会審議が始まった。日本社会党は日本をアメリカの戦争に巻き込むつもりかと猛反対し、話し合いはもつれにもつれた。

 しかし5月19日、採決阻止のために委員会室で座り込みを続ける社会党議員たちを警官隊や秘書を使って強引に排除し、ついに安保改定案は、まず委員会で強行採決され、次いで翌日の本会議でも可決された。

 この強行採決を機に、「安保闘争」は一気に盛り上がった。安保改定阻止国民会議の呼びかけには560万人が集い、全国各地で大規模な集会やデモが実施された。抗議集会は1959年から60年にかけてだけで6000ヵ所以上、またデモ行進は5000ヵ所以上で行われている。

国会を取り囲むデモ隊

 また学生組織としては、日本共産党とケンカ別れした急進派学生たちが「共産主義者同盟(ブント)」を結成し、その下にあった「全日本学生自治会総連合(全学連)」が、激しい反対闘争を展開した。

 このように、国会議事堂の周囲は連日デモ隊に取り囲まれ、警官隊、学生、運動家、右翼団体構成員などの小競り合いが常態化した。

 そして、参議院の採決がないまま日にちが過ぎていく。このまま衆議院で可決された後30日間参議院での採決なしが続けば、条約は「衆議院の優越」規定により自然承認される。

 6月10日には、アイゼンハワー大統領の来日日程を協議しに羽田に来たジェームズ・ハガチー米報道官が、空港に押し寄せたデモ隊に包囲され、命からがら脱出するという「ハガチー事件」が起き、結局アイゼンハワー大統領の訪日もかなわなかった。

 そして6月15日には、全学連運動家で東大生の樺美智子さんが、国会議事堂前でのデモで衆議院の南通用門から国会内に突入した際、機動隊ともみ合って圧死するという事件まで起きてしまった。

 警察が一般人女性に暴力を振るい殺した――この事件はマスコミ各社から大々的に取り上げられ、岸内閣は窮地に立たされた。ここまで事態が悪化したら、誰かが責任を取るしかない。結局岸は、この条約が自然承認された四日後、首相を辞任した。