対米追従か自主独立か?

 1950年代は、アメリカとの関係性が転換点を迎えた時期だった。日本の主権そのものをGHQに握られていた占領統治時代が終わり、政治や経済の意思決定を、自分たちで行えるようになった。ここからようやく日本にも、選んでかまわない“選択肢”ができたというわけだ。

 ということは、本来ならここで「自主独立」路線を選ぶこともできたはずだが、実際日本が選んだ道は「対米追従」路線だった。

 これは、占領統治下からサンフランシスコ講和条約後まで、ずっと吉田茂時代が続いたことが大きい。吉田の対米追従は「アメリカの“使える子分”になることで親分に身の安全を守ってもらい、安心して商売に専念する」というものだから、そうするとどうしても安保で日本を守ってもらいつつ、アメリカの言うことは全部聞くという形になってしまう。

「そもそも、なんで米軍が必要なの?」。そう思う人もいるだろう。それは、日本が自分で国防をやるとコストがかかる上、他国を必要以上に警戒させてしまうからだ。

「いやいや、一切の防衛力を放棄するのが、本当の平和主義なんじゃないの?」。そう言う人もいるかもしれない。だが、もし本気でそんなことを考える人がいるなら、その人はあまりにも国防意識にリアリティがなさすぎる。

 それは丸腰で「みんな、信じてるよ!」と叫びながら三八度線を駆け抜けるようなものだ。国家の役割は「国民の生命・自由・安全・財産を守ること」なのだから、防衛力の放棄は、国家としての責任を放棄していることになる。

 しかしそうなると、国防はアメリカに依存する分、いろいろな局面でアメリカの言いなりになることになる。というより、軍隊と憲法がアメリカ製なのだから、日本はもうアメリカの一部と言ったほうが早い。そうなると、当然その状況をよしとしない考え方も出てくる。それが「自主独立」路線だ。

「自主独立」路線は、鳩山・岸の路線だ。こちらがめざす日米関係は、主従関係ではなく“対等”な関係だ。そうなると当然憲法も、日本人自らの手で、日本独自の文化や価値観に根ざしたものに作り変えなければならないし、もちろん国防も自分でやる。これが実現できれば、最も国家として理想的だし自然だ。

 ただしそうなると、「ウチの親分、すげーんだぞ」という今までのハッタリは、国際社会では二度と使えなくなる。そしてそれをやるには、1950年代の日本はまだあまりにも脆弱だ。

 結局、この頃の日本の状況を考えると、しばらくは対米追従路線をとるしかなかったということになる。その中でアメリカの顔色を窺いながら、徐々に自主独立に寄せていくという感じだろう。「顔色を窺いながらの自主独立」――まだまだ日本の歩むべき道のりは長い。

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