戦後70年の節目に噴出した、安保法案をめぐる議論。日本の安全保障とは一体どうなっているのか?そもそもなぜ、独立国家の日本に米軍の基地が必要なのか?今学び直したい戦後史の謎を、代ゼミ人気No.1講師がわかりやすく教える。第2回は、米軍占領下におけるGHQの統治のブレから、日本の独立、運命の安保条約の調印まで。

GHQの内部分裂――GSとG2の対立

 第1回で見たように、米軍の占領統治下でのGHQの基本方針は「日本の弱体化」だった。そのため初期の対日政策では、軍事面・財政面・法制面などあらゆる面で日本の体力は削られ、弱体化は完成するかに思われた。

 ところが、完成しなかった。GHQの方針に、ブレが生じ始めたのだ。GHQ内部にある二つの部署の対立、いわゆる「民政局(GS)」と「参謀第二部(G2)」の対立だ。

 最初に力を持ったのは、民政局(GS)だった。GSは、マッカーサーの側近で日本国憲法の草案作成を指示したコートニー・ホイットニー准将が局長を務めていた(実際の作成担当は、彼の部下ケーディス)。彼は日本弱体化のため、かなり革新的で冒険的な実験的政策を行った。

「日本はどうやら、保守的な思想が軍国主義につながったらしい。ならその逆の“革新”を指向すれば、相当弱体化できるはず。この際、いろいろ試してみよう」

 ホイットニーはこう考え、日本国憲法をはじめ、労働組合の育成、政治犯として投獄されていた日本共産党幹部の釈放、社会党・片山哲の首相推薦と、保守派が絶対やらないような政策ばかりを実施した。

 まるで「社会主義化の実験場」だ。その様子は、無抵抗でぐったりする日本に新薬を投与し続け、事実上の去勢状態を作り出しているかのようだった。

 ところが、ここまでやっておきながら、GSはこの後、失速する。GSに集中した絶大な権力が汚職の蔓延につながり、延命を図る日本の企業や政治家連中からの賄賂が集中したとのことだった。

 この辺は事件ではなく陰謀だとする説も多分にあるが、とにかくこれが原因でGSは力を失い、ライバルの参謀第二部(G2)の台頭を許すことになる。

 新しく伸びてきたG2はGHQ内の保守派で、“対冷戦の情報機関”的な部署だった。こちらのトップはチャールズ・ウィロビー少将。強固な反共産主義者として知られていたウィロビーは、アジアにおける社会主義の台頭を脅威に感じ、トルーマン大統領に日本を「反共の砦」として利用するよう進言した。

 この方針転換がきっかけで、日本はアメリカン・ファミリーに迎えられることになり、アメリカのために役立つ駒になるべく、がっつり体力をつけ直させてもらうことになった。いわゆるGHQの“右旋回”だ。

 この方針変更を、今や没落したGS、かつてはGHQの中心に立って日本弱体化計画を進めてきたGSのナンバー2、チャールズ・L・ケーディスは怒った。

「くそG2め。せっかくマッカーサーの大将やホイットニー兄貴が、注意深く日本にパンと水しか与えてこなかったのに、いきなりテンプラやスキヤキを食わせやがって。しかも、社会主義の毒までせっせとばら撒いてきたのに、今度は社会主義と戦うだと? 何なんだ、この“回れ右”は!? これじゃ今まで弱らせてきた苦労が水の泡だ」

 彼はトルーマンに直訴しようと帰国した。だがトルーマンは、もともとガチガチの軍人であるマッカーサーを嫌っており、マッカーサーの弱体化路線の継続をケーディスがいくら訴えても聞き入れてもらえず、結局ケーディスはそのまま辞任した。

吉田茂

 GHQではこの後G2が実権を握り、それと同時にウィロビーととても「仲よく」していた吉田茂が首相になり、ここから弱体化とは逆の方向、すなわち“戦後復興”が本格的に進み始めるのだった。

 マッカーサーが弱体化路線をとっていた頃は、日本に舗装道路一本造ることすら渋っていた。そう考えると、戦後復興用にアメリカがやってくれた事柄のすべては、「主権者であるGHQ(=アメリカ)が心変わりし、日本を復興させる気になった」から実現したものばかりなのだ。