遷都の噂まで流れた戦前の大阪
地方主導の地域活性化に学ぶ

都市基盤整備事業によって、ダイナミックな発展を遂げた大阪

 アベノミクスの成長戦略の柱に、地域活性化がある。かつて地域活性化と言えば、国主導で工場を地方にもっていったり、国主導で新産業都市を建設したりといったものであった。しかしながら今日では、国際的に活動する企業は、工場立地を国境を越えてグローバルに考えるようになっている。そんな中で、国が企業に地方へ工場を移転しろなどと言えば、外国に行ってしまうことにもなりかねない。今や地方は、国頼みではなく自らの創意工夫で、自らの地域の活性化を図らなければならなくなっている。

 そこで思い出されるのが、戦前には地方主導による地域活性化の伝統があったことである。その代表例に大阪があった。戦前の大阪は、大正12年の関東大震災で東京が大きな打撃を受けるとしばらくの間は日本一の都市となり、遷都の噂も流れるほどの繁栄を誇った。その姿は、「商都大阪」として今も人々の記憶に残っている。歴史を遡って今日を振り返る本連載としては、そのような大阪の繁栄と、それに対比した東京の姿について見ていくこととしたい。

大阪紡績の創立
明治維新期の危機から復活

 大阪は、江戸時代に「天下の台所」と言われる繁栄を誇っていたが、明治に入ると「まさに瓦解に及ばんとする萌し」と言われたほどの経済危機に直面した。それは、経済・金融の原則を理解しない明治維新政府が、無理に金本位制を導入しようとして、明治元年、大阪の商取引の中心となっていた銀目手形停止(銀目停止、ぎんめちょうじ)(注1)を命じたことによるものであった。

 その危機を、商工業者の組織化や信用秩序の再構築を図ることによって乗り切ったのが、大阪商工会議所ビルの前に銅像が建っている五代友厚(注2)であった。その後大阪は、渋沢栄一が創立した大阪紡績を中心とるす民間活力と、それを支えた大阪市の都市基盤整備事業によって、ダイナミックな発展を遂げていくことになる。

 明治15年に渋沢英一が創立した大阪紡績(今日の東洋紡績)は、日本初の本格的な紡績会社で、その創業後、大阪は綿糸、綿布、メリヤスなど紡績業 において全国一の座を誇るようになり、さらに機械製造、製鉄、造船など各種の工業が興った。そのような大阪の発展を支えることになったのが、大阪市が整備 した大阪港であり路面電車であった。

(注1)金本位制導入の試みは、幕末に日米修好通商条約が定めた不当な為替レートの下で、金が大量に流出し国内に金がほとんどなくなっていた現実を無視したものであった。

(注2)「大阪の恩人」と称された薩摩出身の実業家。1836年(天保6年)~1885年(明治18年)。大阪商工会議所初代会頭。