限界直前、ボブ・ディランの最高傑作は生まれた

◆ライク・ア・ローリング・ストーン

 ディランがミネソタ州立大学をドロップアウトしてニューヨークに出てきたのは1961年1月、彼が21歳の時でした。以来、ハーモニカ奏者として初レコーディングを経験した後、グリニッジビレッジで自作曲を歌っているところをスカウトされ、フォークの旗手としてデビューします。

 以来、公民権運動やベトナム反戦の波に乗り、社会派プロテストソングを世に問います。1963年には“風に吹かれて”(写真上)で一世を風靡。しかし、ディラン自身は同じ場所に安住する気はなく、音楽的冒険に乗り出します。

 65年1月録音の「ブリング・イット・オール・バック・ホーム」(写真下)では、エレキギターを導入し、フォークロック路線へと舵を切ります。“ミスター・タンバリン・マン”は、バーズによるカバーがヒットし、新しい時代を先取ります。ディランの“電化”について、昔ながらのフォーク支持者からはユダの裏切りの如く批判を浴びました。しかし、そんな声には一顧だにせず、ディランは本格的にロックへと前進したのです。

 1965年6月15日、コロンビア30丁目スタジオのAスタジオに集っていたのは、ボブ・ディランとスタジオミュージシャン達です。

 夕刻、ディランは“ライク・ア・ローリング・ストーン”の録音に取り掛かります。構想はありましたが、本格的ロックを録音するのは初めてなので、試行錯誤の繰り返しです。テンポを変え、歌い方を変え、何度も録り直して、テイク5までやりますが、満足できません。何かが足りないのです。結局、翌日も録音を継続することにして、この日のセッションは打ち切ります。

 しかし、歴史に残る別の名曲がこの日の残業から生まれたのですが、これは後述します。

 そして翌6月16日、“ライク・ア・ローリング・ストーン”に再び向き合います。この日は新たにオルガン奏者アル・クーパーが録音に加わります。これが、サウンドをダイナミックに変えました。天才プロデューサー、トム・ウィルソンは奇跡の瞬間が訪れることを確信し、録音を監修します。小さな間違いも許しません。ディランも納得できるまで何度も歌いますが、声が限界に近づきます。深夜に及ぶセッションで、今日も無理かという雰囲気が漂い始めました。