かつて他店の亭主たちがこぞって見聞にきたといいます。開店前から客が店頭に並んだ、あの名店「ほしの」をつくり上げた亭主亡き後、今は1人で蕎麦料理を振る舞います。その女亭主には強いオーラがありました。

店のオーラ
名店は“ど素人の強さ”で始まった

 30年前に開店し、あっという間に名店といわれるようになった蕎麦屋がありました。

 電動石臼をいち早く導入し、1年分の玄蕎麦を低温保存し、石抜き、磨き、殻剥きまでの設備を入れ、自家製粉の蕎麦を売り出したのですから、当時としては画期的なことでした。

かつて他店の亭主たちが見聞に訪れたという、その香りと腰を彷彿させるせいろ。

 他店の亭主たちが教えを請うために見学に来たものでした。

 「店を開ける前からお客が並び始めるから、そりゃプレッシャーで怖かった」

 自家製粉の生粉打ち(十割)蕎麦が評判を呼び、客の1時間待ちはざらだったそうです。

 そう語るのは「ほしの」の女亭主、星野とも子さんです。

 ある日、“蕎麦屋をやる”とサラリーマンのご主人から胸の内を告げられます。一般家庭の娘として育ったとも子さんは、不安を感じたものの予感めいたものがありました。

お昼でも女亭主の心尽くしの手料理をまったりと味わうのが「ほしの」流。食材は北海道や長野からの直送物や近辺の地産物を揃え、美味しいご膳にして客を待ちます。

 夫婦ともに麺類が好きで方々に食べ歩きをしました。その頃は栃木で暮らしていたので、塩原の知り合いの店で蕎麦打ちを何回も見せてもらっていました。

 ご主人の気持ちをなんとなく薄々感じていたのです。

 「元来が器用な人だった」

 ご主人は独学で蕎麦打ちを覚えてしまいます。決心は早く、すぐにとも子さんの池袋の実家近くのひばりが丘に越して、テナントを探し始めました。

 その頃は高度成長時代の最中にあり、テナント料が高く、保証金にしても千万単位の資金が必要でした。

 「途方に暮れました」

 東武や西武沿線のほとんどを見て歩きましたが、物件自体も無く、あっても高くて手が出ない状況が続きました。

 ある日、2人が通りすがりにふと見ると、家の近くに貸し店舗の看板が上がっているではありませんか。“灯台もと暗し”、なんと歩いて3分の場所にテナントがありました。