前回の続きです。 さて、超越世界に入ったとしましょう。ここで人生が終わるなら話は単純なのですが、人生は継続します。そこに、どう生きるかという、抜かしてはいけないテーマがあるのです。ここに触れない自己超越は救済の表玄関のみを示して救済の実質を欠くことになるのです。
自己超越のここでの局面は「それぞれの善を生きる」です。ここで自己超越は円満な姿を見せるのです。
ここに理屈は要りません。入った世界は善の世界、そこで自分の善を生きること、それがすべてです。その世界を淡々として生きられればそれで十分なのです。これに付け加えるべき何ものもありません。
とは言っても、こんな大事なことをこれでおしまい、というわけにはいかないので、屁理屈を少々述べます。
「ありのままの心」、懺悔の心が導き入れられた超越世界は、罪を弾劾する世界ではなく、罪を悲しむ世界です。
そこは常に希望の風が吹き渡っている世界です。苦しみに耐えるように、自棄を起こさぬように、勇気を持つように、勇気を失わないように、と。
確かに、前回述べた懺悔が本当なら、生きてはおれないのです。地獄・餓鬼・畜生・修羅の自分なら、死ぬしかないのです。ところが、そう言って死んでしまえば、もっとひどい地獄世界を作り出すことになる。
それは何としても、避けなければいけないこと。だからそこには踏みとどまる忍耐が要ります。忍耐はどのようにして可能か。忍耐を支えるものが要ります。それは、地獄・餓鬼・畜生・修羅の自分すらも抱きしめ、燃やし尽くしてしまうほどの巨大な感動の世界への信頼です。この信頼の念――信――が、超越世界を生きる土台になります。その世界が生きるように促すのです。
ともすれば頽(くずお)れがちな人間に、超越世界は、忍耐と勇気の世界を開き続けてくれるのです。それどころか、懺悔する心に感謝の思いを引き起こして、新たにこの世界を生きるようにと促してくれます。この作用は重要です。
「地獄決定(けつじょう)」の人間にその誤りを気づかせて救ってくれた超越世界への感謝と今の自分をかくあらしめてくれた両親、親族、友人、社会への恩返しの思い、それが「善を生きる」ことに展開します。懺悔から感謝・報恩への展開のプロセスです。
臨済宗円覚寺派管長であった朝比奈宗源老師(1891~1979)に次の言葉があります。
佛心には生死の沙汰はない。
永遠に安らかな、永遠に清らかな、永遠に静かな光明に満たされている。
佛心には罪やけがれも届かないから、佛心はいつも清らかであり、いつも静かであり、いつも安らかである。
これが私たちの心の大本である。
佛心の中には生き死にはない。
いつも生き通しである。
人は佛心の中に生まれ、佛心の中に生き、佛心の中に息をひきとる。
生まれる前も佛心、生きてる間も佛心、死んでからも佛心。
佛心とは一秒時も離れてはいない。
こういうものとして人間と宇宙の関係をとらえ、安心立命の世界を生きる。生活と人生の汚れや苦しみの中で、常にこの爽やかな佛心から善を生きる力を得る。この言葉に多くの人が慰められ、励まされて来たのだと思います。
ことさらに善を言う私は、恐らく未熟ゆえのことだろうと思います。しかし、人間を生かしむるためには、その生のエネルギー、社会での生存を自分なりに方向付けをしないとせっかくの懺悔が宙に浮いたものになりはしないかと不安なのです。
私が本書の「補遺」の末尾で次のように書いたのはこのような意味です。
信 耐 善
超越世界の
道しるべ
最後になりますが、盲聾の生涯を生きたヘレン・ケラー(1880~1968)の言葉を引用します。“The Story of My Life”(1903)の第23章に彼女とブルックス主教の会話が書かれています。
「ある時、なぜこんなにもたくさんの宗教があるのか、という私の質問に」主教はこう答える。「『ヘレン、普遍的な宗教はひとつしかない。それは『愛』という名の宗教だ。心と魂の奥底から、天なる父を愛しなさい。神の子どもすべてを全力で愛しなさい。そして、善の力は悪の力よりも強いのだということを忘れないように。そうすれば、天国の鍵はあなたのものだ』(中略)
人を自由にし、高めるすべてのもの、人を謙虚にさせ、やさしい心にし、慰めるすべてのものの中に神がある。」(『ヘレン・ケラー自伝』新潮文庫、2004年)
結論です。自己超越はそれぞれの善を生きるように人間を導きます。懺悔から感謝・報恩へと気づかせることによって。ここで初めて、自己超越は円満な姿を示すのです。