結局、経済も経営も人生も、その究極の知恵は自己を知るところにありそうです。人間学の究極とは、自己の実相を知ることです。

 自己実現的人間にとって自己とは頭(知的能力)です。だから、自己実現は成功要因になります。しかし、本当は自己とは心です。そして、頭と心とは必ずしも一致しない。そこに人間の問題があります。最大の問題は、頭には心と違って倫理性が反映しないのです。

 そこに欲望が登場します。比喩的に表現すれば、かつてはつながっていたであろう頭と心の間に、寄生虫のごとく欲望が入り込み、頭と心を切り離すという状況が生じます。

 ここに失敗の必然性があります。経営者の失敗、政治家の失敗、研究者の失敗、エンターテイナーの失敗等々、メディアが報じる成功者の失敗の大方は、その技術的領域での失敗ではなく、「人間」で失敗しています。ここに問題の本質があるのです。

 頭――知性と意識――、心、欲望。そして、人間が自分の本当の姿に気づくのは?

 人生失敗の気づきと苦しみが、心に自分のありのままの姿を見せるのです。この心が見るもの、目の前に展開する風景は一種、独特のものです。そこでは、妄想の泥土――頭が作り出す役立たずの想念――が完全に拭い取られています。そして、自分の本当の姿、心のいわば岩盤がさらけ出されています。

 そのような状態を「ありのままの心」と表現しましょうか。妄想の知の計らいや賢しらのない心の状態です。そこには自己がありません。

 この自己超越の次元に到達する方法として、マズローは「至高経験(peak experience)」の事例を収集しています。忘我の境地、エクスタシー、超常体験、幸福感や万能感等々、超越者が経験したであろう至高経験の収集。

 この宇宙が芸術的宇宙、宗教的宇宙ならそれは正しいアプローチでしょうが、この宇宙の本質は倫理的宇宙です。したがって、至高経験アプローチはマズローの期待と裏腹に、自己実現レベルの探求に終わり、自己超越には到達しないのです。至高経験では倫理的宇宙の裾を見るくらいで、本質には触れ得ないのです。

 逆に言えば、「ありのままの心」の発見には、人間が欲望を自己と妄想して生きて来た「人生」に対する徹底した認識――懺悔――が要るのです。

 ところで、「ありのままの心」には自己がないと述べました。それはどういうことでしょうか。

 人間はロシアのマトリョーシカ人形のようなものかも知れません。入れ子構造です。

 私とは何か? 肉体である。しかし、肉体の細胞は入れ替わるし、仮に一部がなくなっても私は私である。そうか、私の本質は頭だ。知と意識とこれをつかさどる脳。しかし、これが妄想の元でもあったな。意識は別としても、妄想の原因たる自我頭に永続性はなさそうだ。そして、「ありのままの心」の発見。しかし、「ありのままの心」に懺悔の意識はあっても、それが見出すものは超越世界だけである。

 このように展開して、結局、ラッキョウならぬ自己の皮むきをやったら、究極に見出し得るものは超越世界だけだったということです。

 しかし、意識は残るじゃないかとの質問が想定されます。ここは私もどう理解すれば良いかわかりません。少なくとも言えることは、それは機能としてのみ存在しているということで、そこに存在の主人公の地位を与える必要はないということです。

 私の解釈ですが、これを釈迦は「自己不在」と表現しました。確かに、そこ(意識の機能)に自己を付着させる必要はないのです。この「自己不在」の発見が世界に仏教を生じさせました。

 釈迦は妄想の自己と妄想の社会を空虚なものと見切って「空」と表現しました。しかし、同時に、それをそのように見せたものがあったわけですが、後代の大乗の論師達が(代表は龍樹・ナーガールジュナ、150~250頃)これをも言語表現不可能なものとして「空」と表現したため、後世の人間にとっては非常に曖昧なメッセージと化してしまったのです。

 空の実在的側面を忘れてはなりません。「作られざるもの(=ニルバーナ)を知り」(『真理の言葉・ダンマパダ』97)あるいは「不生なるものが有るからこそ」「作られざるもの(=無為)を観じるならば」(『感興の言葉・ウダーナヴァルガ』第26章21)と釈迦が述べたように。

 結論です。自分を知ることなしには何も始まらないのに、自分を知ることの何と難しいことでしょうか。

「ありのままの心」の発見、これが自己の実相を知ることです。これは回心とか悟りと呼ばれる人間の経験の重要な側面です。