政府は、昨年12月に発表された「新成長戦略(基本方針)」の中で、国内総生産(GDP)の成長率など、“経済的な指標”とは違う、“幸福度を表す新たな指標”を開発し、その向上に向けた取り組みを行うことを掲げました。そして4月27日、“幸福度指数”開発に向けた第一歩として、国民が実感している幸福感・満足感の現状調査が公表されました。この調査報告によると、日本人の幸福感は、10点満点中平均で6.5点とのことです。

 しかし、この数字だけ見ても、いいのか悪いのか、そもそも幸福度とはどういうことなのか、判断の仕様がありません。各メディアでは、この結果を受け、2008年の欧州諸国28ヵ国で行なわれた同様の調査平均点6.9点との比較から、「日本の結果は欧州を下回るものだった」と報じていましたが、「日本と欧州の幸福度を単純に比較できるのか」という疑問がわき、私はどうも腹に落ちませんでした。

数値で相対化
することへの違和感

 そもそも幸福感なるもの自体、個人の主観的価値観という“定性的”なものであり、“定量化”(数値化)には馴染まないものだと思うのです。また、個人の主観に依拠する「幸福感」をわざわざ数値化し、欧州の同様の調査など他者との比較で“相対化”すること自体にも違和感を覚えます。

 この違和感は、私が環境問題の議論の中でいつも抱く違和感と同質のものです。つまり、個人の主観的価値観に依拠する「環境意識」を、温室効果ガス削減目標で数値化し、欧州など他者との比較で“相対化”することに対する違和感です。

 “相対化”とは、唯一・絶対的な価値観や解が存在しないときに、他者との比較から価値観や解を見つけ出すことが求められるものです。さまざまな価値観や情報が錯綜する混沌とした現代は、まさに唯一・絶対的な価値観や解が存在せず、好む好まざるに限らず、他者との比較から価値観や解を見つけ出すしかない「相対化の時代」と言えるのかも知れません。

 東西冷戦後、社会主義の崩壊により、短絡的には唯一・絶対的な体制ととらえられた資本主義や市場経済システムも、特にサブプライム問題以降、絶対的なものとして評価されることはなくなり、むしろいまでは、第三極を模索する“相対化”の動きが活発化しています。冒頭であげた政府の幸福度調査などは、まさにそうした動きそのものと言えます。

 国内の政局に目を向けても、戦後長らく続いた自民党政治に対峙する唯一の極として、民主党が華々しく政権交代を果たしましたが、迷走する政権運営の結果、今ではその民主党自体が“相対化”(変革を担う唯一の極ではなくなった)されてしまっています。

 また、鳩山政権発足後、「温室効果ガスを2020年までに1990年比で25%削減する」という国連での演説で最優先課題として議論されたかに見えた環境問題についても、ひと頃と比べると随分と目にする機会が減ったように思えます。

 しかしこのことも、新政権が環境問題を大義面分では誰も納得するであろう、絶対的な価値観として提起したものの、政治とカネの問題や普天間基地移設問題など、国民の関心が山積する政治課題へと移って行く中で、環境問題が“相対化”されてしまった結果といえるでしょう。