かつて、社員の離職率が28%に達しサイボウズは、どのようにして社員が辞めない「100人100通り」の働き方ができる会社になったのか? その過程と、多様性をマネジメントする手法を詳細に記した書籍、『チームのことだけ、考えた。』より、サイボウズの創業期から会社の改革に着手するまでの部分を紹介する連載の第2回です。
愛媛の松山で誕生したサイボウズは大阪、東京へと進出し、上場も果たすが、社内の一体感は失われ、売上と利益も激減し始める…
止まると死ぬ、止まらなくても死ぬ。
疲れ切った中での上場
サイボウズの事業は拡大していったが、圧倒的に人手が足りない。「サイボウズ Office」が売れ始めると、何社ものソフトウェア企業がよく似た製品を開発し、市場に投入してきた。サイボウズの開発メンバーは、畑さん1人だけだ。このままでは競争に勝てない。早く開発者を採用しなければサイボウズは死ぬ。
畑さんは元々ジャストシステムに勤めていたのでプログラマーの友達がたくさんいた。しかし、転職してきてほしいと誘っても断られた。愛媛県に縁もゆかりもない人にとって、松山市は遠い場所だ。誘った人の中に「大阪にオフィスを出すんだったらサイボウズに入社してもいい」と言う人がいた。決めた。大阪に移そう。
畑さんと私は大阪大学の出身で、高須賀さんと私は大阪府門真市にある松下電工で知り合った。やはりサイボウズは大阪にふさわしい会社だ。
畑さんと私は大阪に出張し、入居できそうなビルを探した。大阪の中心は梅田である。梅田にオフィスを構えれば、断る人はまずいまい。阪急梅田駅から徒歩1分という絶好のロケーションで、コストパフォーマンスの高いオフィスビルを見つけた。完璧だ。これで採用できる。上田さんに別れを告げて、いざ大阪へ。
3人はついに大阪に来た。これで人員を増強できる。松下電工時代の知人や大学の同級生まで、手当たり次第に声をかけていった。サイボウズの事業に魅力を感じてくれる人はいないか。一緒に働こうと考えてくれる人はいないか。そして、それは意外とたくさんいた。大阪オフィスを開設してから1年の間に、人は15人まで増えた。
その後も競合が続々と参入してきた。ウェブ技術を使ったアプリケーションは、仕組みがわかってしまえば比較的低コストで開発できる。競争に勝つには、さらに開発スピードを上げ、強いブランドを先に作らなければならない。
そのために徹底的に広告を出した。ソフトウェア業界は、「Winner takes all」と言われるように、一番早く成功した企業が圧勝する傾向がある。先に名前を売り、業界のスタンダードだと認識されれば、サイボウズも生き残れるに違いない。当時の売上は月1億円程度まで増えていたが、そのうち半分の5千万円を広告宣伝費に投入した。大量に広告を出していくために、松下電工時代に知り合った別府克則を採用し、2人で手分けして宣伝活動に取り組んだ。しかし、1か月で5千万円の広告費など、とても使い切れない。でも、とにかく使わなければならない。手当たり次第に広告を打ちまくった。当時数十誌あったコンピュータ雑誌のほとんどでサイボウズの広告を出した。ボウズマンという特異な自社キャラクターを作って人目を引き、大量に広告を見てもらうことでスタンダード感を演出した。1つひとつの広告の効果が多少悪くてもかまわない。ガンガン出した。そして、「サイボウズ Office」はさらに売れた。
それによって、問題が発生した。人員の増加ペースよりも販売の増加ペースのほうが早く、また業務が滞るようになった。人員は増えているのに忙しさは悪化している。新しい機能を出せば出すほど、広告を出せば出すほど、サイボウズへの注目は高まり、売上は伸びていった。採用も頑張っていたが、知人に声をかけるにも限界がある。
「サイボウズ Office」の新バージョンの発売開始が近づいたある日、顧客サポート部門のリーダーから思いがけない言葉を聞く。「新バージョンのリリースを延期してほしい」。顧客サポート部門は急増する問い合わせに対応できず、回答まで数日待たせる状況が続いていた。採用した新しいメンバーに十分な教育をする余裕が持てず、対応品質の低下を招いていた。ここで新バージョンをリリースしたら、さらに問い合わせが殺到する。問い合わせに答えられないということは、信頼を重んじるビジネスソフト業界では致命傷だ。二度と戻ってきてくれないかもしれない。
しかし、止まるわけにはいかないと判断した。競争相手は、我々よりもはるかに規模が大きく、開発スピードを上げて追いかけてきている。新しいバージョンを早くリリースし、一気呵成に広告し、スタンダードのブランドを作っていかなければ、我々は存続できないと考えた。
そして混乱の中、新製品を予定通りリリースした。新製品を待っていた既存顧客からは、バージョンアップの申し込みが殺到した。オフィスのFAXの横には、受信した申し込み用紙が山積みになったまま放置されていた。とてもじゃないが処理できない量だ。うれしい悲鳴を上げたいところだが、そんな余裕はなかった。止まると死ぬ、止まらなくても死ぬ。いつ抜けるかわからないトンネルをひたすら走っている。走り続ける高揚感だけがあった。
サイボウズはさらに売上を伸ばしていた。ちょうどそのころ、マザーズという新興企業向けの株式市場が東京証券取引所に開設されることを知った。上場すれば資金が集まり、競合に大きな差をつけられるのではないか。しかし、3人の創業メンバーには株式など金融に関して知識がない。そこで、日本興業銀行に勤めていた山田理(現サイボウズ副社長)を知人から紹介してもらって採用し、上場準備を始めた。
しかし、入社したての山田の仕事の半分は、社内のもめ事の仲裁だった。異常な忙しさが原因で、社員同士の関係は険悪だった。毎日残業で土日も出勤。やってもやっても終わらない業務を前に、仕事の割り振りで言い争いをしたり、仕事のやり方を非難し合ったりすることもあった。毎日のように女性社員が泣いていた。泣いたら山田や私が話を聞いて慰めたが、何の解決にもならなかった。みんな必死に働いていたが、ただただ忙しかった。
そして、2000年8月23日、サイボウズは上場した。松山市のマンションで3人が創業してから、わずか3年と15日。その日は近所の居酒屋に社員が集まって上場記念の飲み会を開催した。今まで頑張ってきたメンバーをねぎらうイベントになるはずだったが、ほとんどのメンバーが残業のために遅れてやってきた。心も体も疲れ切った中で、表向きの笑顔だけがそこにあった。もう駄目だ。もっと人を採用しやすい場所に行こう。つまり東京だ。
東京への大移動。
今度は人を増やし過ぎる
当時サイボウズで働いていた従業員は、正社員と派遣社員を合わせて約30人。この全従業員に東京への異動をお願いした。派遣社員には派遣元に協力を仰ぎ、この機会に正社員になってもらった。年俸は、全員一律で100万円アップすることにした。1人でも多く連れて行こうとしたが、家族や住居の関係で、全員は行けなかった。2000年の春から年末にかけ、数人を残してサイボウズの社員は大移動を実施した。
東京に移ってからは、人材採用が比較的順調に進んだ。上場したことで知名度が高まった。今まで募集をかけてもなかなか集まらなかったのに、続々と申し込みが来るようになった。採用ペースを上げるために、採用可否の判断を現場に任せ、次々と採用していった。
これで人手不足が解決する……。しかし、さっそく次の問題が発生した。急いで人を増やし過ぎた。2002年には社員数が70人を超えた。2年で2倍以上に増えたことになる。社内の一体感が急速に失われていくのを感じた。社員と話していると、製品や他の部門に対して愚痴を聞く機会が増えた。飲み会で誰かのよくない噂を耳にすることもあった。誰かがミスをすると、すぐに社内に広まった。指示を待ったまま仕事をしない人まで出てきた。おかしい。サイボウズはもっと真面目で前向きな人たちが働く場所だったはずだ。
大阪時代は忙しかったが仕事に没頭できていた。みんな日々の仕事をこなすのに必死だった。自分が休んではいけないという使命感に燃えていた。サイボウズの成長に、自分の成長を重ね合わせながら、夢を持って働いていた。しかし、東京に来てからというもの、忙しさはピークを越えたが、仕事への熱心さは失われつつあった。上場前と上場後はこうも違うものなのか。
いや、単に組織をマネジメントする能力がなかったのだ。そんなとき、サイボウズの売上と利益は激減し始める。2003年1月期、サイボウズの売上は前年比で14%減、経常利益は37%減。もちろん減収も減益も創業から初めてのことだ。
※第3回は12/26公開予定です