日本で最初に開港したのは横浜港だが、明治期の日本で横浜港を破って日本一の座にあったのは神戸港だったことを、ご存じだろうか

前回、地方主導の地域活性化として、大阪港築港をご紹介した。実は、港として最初に開港したのは横浜港であり、横浜については相当に政府のテコ入れもあって、東京の玄関としての港湾整備が行われた。しかしながら、それに対抗して日本一の港となっていったのは神戸港であり、大阪港と一体となって関西圏の経済発展を支えた。その背景には、明治時代の殖産興業政策が民間活力を基本とするものだったという理由があったのだ。

実は民間主導だった
明治の殖産興業政策

 明治政府が富国強兵を唱えたことから、明治時代の殖産興業政策は官主導で中央集権的に行われたと思われている人が多いだろうが、事実は異なっている。明治維新期の政府は外交や防衛、それに国家としての最低限の姿をつくり上げるのに手一杯で、内政面、すなわち殖産興業といった分野は基本的に地方や民間任せであった。

 明治維新政府が、殖産興業政策を基本的に地方に任せたのは、当時の地方の経済力が強かったからであった。それは、明治維新が薩摩藩や長州藩という地方の藩の力で成し遂げられたことを考えればわかることである。

 ペリー来航の10年余り前、1840年から42年のアヘン戦争での清国の敗北が伝えられると、それまでも外国船来航に直面することが多く危機感を持っていた西南雄藩が、西欧の技術導入に努めることになる。そして、軍備まで近代化して、戊辰戦争になり、明治維新になった。

 この7月に世界歴史遺産に登録された明治日本の産業革命遺産の中に、鹿児島の集成館というものが入っていたが、それは当時、薩摩藩主だった島津斉彬が、黒船来航の2年前となる1851年(嘉永4年)、欧米列強に対抗するための軍事強化と産業育成を図ろうとして設けたもの。薩摩藩は、そこで製鉄・造船・紡績など幅広い分野での近代産業導入を試みた。何故、薩摩藩にそんなことができたのかというと、当時の薩摩藩には、それだけの財政力があったからである。

 薩摩藩といった西南雄藩に限らず、江戸時代には、それぞれの藩は相当の経済力を持ち、地域ごとに活力に満ちた経済活動、文化活動を展開していた。そのことは、今日に引き継がれている各地のお祭りの華やかさを見ても、明らかだ。

 実は、明治維新期になっても、地方の方が東京よりも強い経済力を持っていた。明治23年に第1回の帝国議会議員選挙が行われたが、そのときの有権者数は、東京よりも新潟県などの方が多かった。当時の有権者は、直接国税15円以上の納税者だったが、東京よりも新潟県などの方が、経済力があったということだ。当時の日本は農業国家だったので、米どころの新潟県などの方が東京より強い経済力を持っていたことは、当たり前といえば当たり前だった。