巨大なローマ帝国を相手に、圧倒的に不利な状態から勝利をつかみ取った「戦略の父」ハンニバル。彼はどのような視点から戦ったのだろうか。先の見えない時代にこそ知っておきたい、今も昔も変わらない不変の勝利の法則。歴史を変えた英雄たちの戦略思考を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。

【法則1】勝者が予想できないところを突く

なぜハンニバルは、10倍のローマ軍を壊滅に追い込めたのか?
イタリア半島で勢力を拡大したローマは、植民地を広げて地中海への影響力を強める。そこで海運国カルタゴと衝突。カルタゴのハンニバルは、後年「戦略の父」とまで呼ばれる天才戦略家。巨大なローマ帝国を震撼させたハンニバルの戦略とは、どのようなものか?

3度の戦争とハンニバル父子の活躍

 カルタゴは紀元前8世紀頃、地中海に面する現在のチュニジア共和国周辺で建国され、次第に勢力を拡大し、紀元前6~5世紀には西地中海の商業地として栄えます。紀元前4世紀頃にシチリア島の西側を支配しますが、イタリア半島で勢力を拡大したローマも影響力を強めながら、やがて両国は衝突していきます。

 紀元前264年、シチリア島でスパルタ系国家のシュラクサイが都市国家メッシナを侵略します。メッシナが、3キロの海峡を隔てたローマに助けを求めたことで、島の西側を支配するカルタゴとローマの、3次(100年以上)にわたるポエニ戦争が始まります。

 ハンニバルの父、ハミルカル・バルカは第一次の戦争で、戦略の天才として有名な息子ハンニバルは第2次ポエニ戦争でカルタゴ軍を指揮しました(バルカは雷光の意味)。紀元前247年に父ハミルカルがシチリア島の指揮官となり、陸海でゲリラ戦を展開、ローマ軍を大いに悩ませました。

 海運国カルタゴは操船術が巧みで、ローマは市民兵による陸軍が強かったのですが、地中海を挟んだこの戦争でローマは海戦の重要性を見抜き、新戦術を開発します。船に大きな梯子を据え付け、敵の戦艦にその梯子を打ち込み、歩兵が乗り移って戦う方法です。

 これでローマ軍は、海上で陸戦を戦うようにしてカルタゴ海軍に逆転勝利します。カルタゴ海軍が大敗したことでハミルカルはローマと講和を結びます。膨大な賠償金を課されたうえにカルタゴはシチリア島を失い、第1次ポエニ戦争が終結します。

巨大すぎる敵を倒すには、どう戦えばいいのか

 父ハミルカルは雪辱のため、9歳の息子ハンニバルも連れてスペインに移住。スペインで諸部族に勝ち、領土と富を得ながらも父ハミルカルは戦死。バルカ家がスペインを支配してハンニバルが将軍に選ばれたとき、彼は父の宿願を果たしたいと強く願いながらも、ローマの強大さとカルタゴ側の劣勢を冷静に見抜いていました。

■ローマ軍の強大さとカルタゴの圧倒的な不利
・第1次ポエニ戦争でローマに制海権を奪われたこと
・ローマが動員できる総数は約30万人(イタリア半島の全支配都市から)
・ローマの正規軍に対して、ハンニバルが動員できる兵数は傭兵が5万人程度

 ハンニバルがローマ軍との戦争で計画したのは「敵の意表を突いた勝利」でした。彼は約5万人と戦闘象37頭でスペインから隠密に東進、北イタリアから侵入します。

「ローマ側は戦争はスペインとシチリア島で行われるものとばかり思っていたので、アルプスを越えてハンニバルが侵攻してきたとき、彼らは驚愕し恐怖を覚え、侵攻を食い止めようと大軍を北イタリアに送った」(ジョン・プレヴァス『ハンニバル アルプス越えの謎を解く』より)

 途中のローヌ河を渡る際には、対岸に敵となるケルト人部隊が控えていました。ハンニバルは部下の一隊に密かに上流で渡河をさせ、ケルト人の背後に回らせます。味方の狼煙の合図で、ハンニバルの本隊は渡河を開始。ケルト人部隊は目の前のカルタゴ軍本隊に襲い掛かりますが、その瞬間ハンニバルの別働部隊がケルト人の陣営に火を放ち、ケルト人は自分たちの背後で突然、火の手が上がり大混乱に陥ります。

 北イタリアのトレビア河では、ハンニバルは少数の騎兵で敵を誘い、ローマ軍の前衛が冷たい冬の河をこちら側に渡り切ったところで急に反転、対岸に渡った味方の全滅を防ぐために、ローマの全部隊が冬の河を慌てて渡り救援に向かいますが、ずぶぬれで疲労困憊の状態となり、前日夜から南方に隠れていたハンニバルの弟マゴが指揮する軍勢に後ろからも襲われ、壊滅状態となり敗北しました。

 史上名高いカンネーの戦いでは、ハンニバルは最初に敵の突撃型の将軍にわざと負け、守備的な将軍には勝つ偽装をくり返してローマ軍に「突撃型の将軍」の指揮が有利と思わせます。8万人の敵ローマ軍に対して、ハンニバル側は5万の兵。しかし決戦では猛進するローマ軍を巧みに引き込みながら、騎兵で背後に回り込み包囲して殲滅しました。ローマ軍の戦死7万人、捕虜1万人、元老院80人の戦死にローマは驚愕します。