稲盛和夫が語った起業の「原点」とは――。京セラとKDDIという2つの世界的大企業を創業し、JAL再建の陣頭指揮を執った「経営の父」稲盛和夫氏。その経営哲学やマネジメント手法は世界中に信奉者を持つ。
『稲盛和夫経営講演選集』(第1~3巻)『稲盛和夫経営講演選集』(第4~6巻)発刊を記念し、「企業が高収益でなければならない理由」を語った貴重な講演録を掲載する。
なぜ企業は、
「高収益」でなければならないのか?
まず「企業経営はなぜ高収益でなければならないのか」ということを考えてみようと思います。この原点は、京セラという会社をつくったときにあります。
『稲盛和夫オフィシャルサイト』
会社をつくった最初の年の売上は約二六〇〇万円でした。税引前利益はおよそ一割、三〇〇万円ほど出ました。それ以来、創立四〇周年を迎える今日まで赤字経営をしたことは一回もありません。企業史上、稀な記録をつくっている会社だろうと思います。
創業当時、私は経理をはじめ、経営について何もわかっていませんでしたから、三〇〇万円の利益が出たと言われても実感がありませんでした。
当時は、青山政次(まさじ)元社長が専務でした。経理屋さんがいなかったものですから、青山さんが、一生懸命に銭勘定をしておられました。青山さんはもともと電気の技術屋で、経理がわかっていませんから、細かいことについては宮木電機の経理の人に手伝ってもらっていました。そうして初めて決算を締めたところ、三〇〇万円の利益が出たということを青山さんから聞いたわけです。たいへんうれしかったことを記憶しています。
なぜうれしかったのかと言いますと、会社をつくるとき、宮木電機の専務であった西枝一江(いちえ)さんが個人的に家屋敷を担保に入れ、京都銀行から一〇〇〇万円を借りてくださり、それを京セラに貸してくださっていたからです。できたばかりの京セラという会社には信用がありませんでしたから、京セラという名前では、誰もお金を貸してくれませんでした。
西枝さんはたいへん聡明な方で、そのような方に創業を支援いただいたことは今にして思えばわれわれにとって幸せなことでした。西枝さんは京セラをつくるとき、宮木電機の子会社として京セラを位置づけるのはやめておこうと言われたのです。
青山さんは松風工業にいたときの私の上司で、前役員でもあり、技術担当部長でした。私は技術部の一番下の係長で、伊藤謙介会長は私の部下でした。一緒に辞めることになってしまったのですが、そのときに青山さんが、旧制京都帝国大学の電気工学科で同級生であった西枝さんに、「稲盛という男がいる。すばらしい人間だから、ぜひ会社をつくって新しいスタートを切らせてやりたいので支援をしてくれないか」と頼んでくださいました。