生誕の地・仙台

 塚本幸一は大正9年(1920年)9月17日午前8時、宮城県仙台市花壇川前町(現在の青葉区花壇)の地で、父粂次郎(くめじろう)、母信(のぶ)の長男として生を享けた。

 広瀬川が大きく蛇行しながらすぐ目の前を流れ、その向こうに仙台城址のある青葉山をのぞみ、初夏の若葉がよく似合う風光明媚な土地である。

 後年、幸一は自分の生家のスケッチを描き残している。

生家の目の前を流れる広瀬川。向こう岸には仙台城址のある青葉山が見える

 建物は古かったが、庇付きの立派な門があり、木塀に囲まれていた。門を入ると石畳があり、右にお勝手口、左に庭があり、左隣の軒続きの二軒は人に貸していた。

 広瀬川の河原の向こうに第二師団の練兵場があって、家からでも訓練の様子がよく見える。6月になると近所の栗の木が黄白色の花をつけ、その匂いが後々まで強く印象に残った。

 吾が里は青葉山下広瀬川 流れも聞こゆ川前の町
 吾が庵は山ほととぎす河鹿鳴く 栗花匂ふ社の都すみ

 戦地に行った時、彼は故郷を偲んでこう歌に詠んでいる。だが仙台を思いだす時、そこに去来した思いは複雑なものだった。その理由については後に触れる。

 幸一が生まれた年の10月1日、わが国最初の国勢調査が行なわれ、朝鮮、台湾、樺太などを含まない日本の総人口は 5596万3053人(うち、男2804万4185人、女2791万8868人)と発表された。現在の約半分だったことがわかる。

 近所に住んでいたのが、「荒城の月」の作詞で知られる詩人の土井晩翠(どい・ばんすい)である。塚本家から500メートルほど北東に、現在も彼の旧宅が晩翠草堂として残されている。

 彼は、幸一の誕生を祝してこんな歌を詠んでくれた。

 一(はじめて)の国の調べに生まれきて 花壇の奥に幸まさるらん

 今に残る写真を見ると、現代的な美男美女の両親であったことがわかる。生まれてきた幸一も、幼い頃から父親に似たくりっとした大きな目の、はっきりした目鼻立ちをした可愛い子どもだった。

 父粂次郎は滋賀県神埼郡五個荘村川並(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の出身である。粂次郎というのは祖父の名前でもあり、幸一の父親は二代目にあたる。

 五個荘、近江八幡、日野は近江商人の三大発祥の地と言ってよく、母の信も近江八幡の出身であることから、幸一は自分が近江商人の末裔であることに、この上ない誇りを感じていた。

 塚本幸一の持っていた人並はずれたビジネスセンスを語る時にはずすことのできないこの“近江商人”について、少し詳しく触れておくことにしたい。