競争戦略では常に「棲み分け」か「共生」かが論点となる。各国入り乱れて戦う人類初の世界大戦で、ドイツはなぜ競争優位を保てなくなり、消耗戦へとなだれ込んだのか?今も昔も変わらない不変の勝利の法則を、ビジネスでも応用できるようにまとめた新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。
【法則12】優位性のない棲み分けはいずれ消耗戦となる
ビスマルクとモルトケの有能な二人が世を去ると、政治感覚のないリーダーを持ったドイツ帝国は国際社会で失策を犯し始める。世界各国が一ヵ月で戦争状態に入る悲惨な第一次世界大戦で、なぜ英仏は塹壕に隠れたドイツ軍に勝てたのか?
名宰相と名参謀が去り、失策を始めるドイツ帝国
普仏戦争に勝ったプロイセンは、ヴィルヘルム一世を皇帝としてドイツ統一を成し遂げましたが、次の皇帝ヴィルヘルム二世は、名宰相ビスマルクを失脚させて親政を開始。フランス封じ込め政策を軽視し、仏露が軍事同盟(1894年)を結ぶことを許します(ビスマルクはロシア対策としてオーストリアとも軍事同盟を結んでいた)。
普仏戦争で活躍した名将モルトケも一八九一年に世を去り、ドイツの外交と軍事は軽率な失策を重ねながら、次の3点が第一次世界大戦への伏線となっていきます。
(1)ドイツは仏露に挟まれたことで、1905年に参謀総長シュリーフェンが「シュリーフェン・プラン」を作成。フランスを一気に攻略して次にロシアへの対抗を計画
(2)フランスは孤立からの脱却を図り、ロシアとの軍事同盟をさらに強化。どちらかが攻撃を受けた場合、もう一方の国は速やかに宣戦布告をすることにした
(3)イギリスはドイツの軍備拡大(特に海軍)を強く警戒し、100年以上の国是であるフランス敵視を捨て、1904年に英仏協商、1907年に英露協商を締結した
複雑な同盟関係と意図は、主要五ヵ国だけで約1574万人の死者を出す地獄のような戦場、第一次世界大戦の導火線となります(山室信一他・編『現代の起点 第一次世界大戦2 総力戦』より)。
バルカン半島の民族独立に、
ロシアとオーストリアが干渉して戦火が拡大
1914年6月、オーストリア皇太子夫妻がセルビア人の民族運動員に殺害され、同年7月にオーストリアがセルビアに宣戦布告。セルビアの独立を支持していたロシアは、オーストリアの宣戦布告に対して軍に動員令を発令します。
ロシアの動員令に驚いたのが、オーストリアと同盟関係だったドイツです。シュリーフェン・プランは、フランスに電撃的に進軍し、勝利ののちにロシアと対峙する計画でしたが、シュリーフェンのあとに参謀総長となった小モルトケ(あのモルトケの甥)は、ロシアに先手を許せば作戦の前提が消失すると判断。8月1日にドイツ軍に動員命令を下し、同日にロシアへ、3日にはフランスへ宣戦布告します。
ドイツ軍はフランス侵攻のため8月4日に中立国ベルギーへ侵入。この侵犯を理由に同日、イギリスがフランス側でドイツへ宣戦布告。事態は混迷を深めていきます。ビスマルクとモルトケが存命ならば、絶対に防いだ最悪の事態をドイツは招きます。二大国に挟まれて戦闘を開始し、中立国を侵犯して国際社会で大義名分を失ったのです。
フランスが西部戦線で反撃するも、ドイツの塹壕の前に膠着状態に
第一次世界大戦は、機関銃や戦車などの新兵器で死者の桁数が一つ上がった戦争でした。
「(イギリス軍に向けて)銃撃を開始したが、ただ繰り返し弾丸を装填するだけでよかった。彼らは何百人という数で倒れていった。狙う必要はなかった。ただ彼らに向かって弾丸を撃ち込むだけでよかった」(前出書より)
ドイツは8月後半にはフランスに侵入する快進撃を続けます。しかし小モルトケが西部戦線の部隊を計画よりも削減したことで、パリから70キロのマルヌ河畔で敵に包囲されてしまい、続くマルヌの会戦でドイツ軍の進撃は阻止されます。
ドイツ軍はマルヌの北40キロのエーヌ川まで後退、塹壕を築き仏軍の側面に回り込んで反撃の機会を窺います。仏軍もドイツの側面に回り込むため陣地を構築し、双方が南北に塹壕を掘り続けてなんと英仏海峡からスイスまでに達します。
1916年2月にドイツが仏軍のヴェルダン要塞を攻撃。両軍で70万人以上の死者を出して戦況は変わらず。同年夏のソンムの戦いでは、初日で英軍は戦死者2万人を含めて6万の兵士が戦闘不能になり(ジャン=ジャック・ベッケール他『仏独共同通史 第一次世界大戦(上)』より)、両軍で100万人以上の死者を出して、仏英側がわずかな地域を占領したに過ぎませんでした。
5月はユトランド沖海戦で、英独の大艦隊が激突するも、一方的な勝利は実現せず。西部戦線は三年近く膠着状態となり、被害を拡大しながら予想外の長期戦となります。