戦いの天才と言われる革命児ナポレオン。従来の常識を超える戦い方は、敵が動き始めた状態に勝機を見出すプロトタイプ思考が肝だった。現代のビジネスでも、考えるばかりでなかなか始められない旧式企業に、まず始めてから改善をスピーディーに行う新式企業が打ち勝つ逆転劇が生まれている。古い組織を打ち破るナポレオンの戦略思考を、新刊『戦略は歴史から学べ』から一部を抜粋して紹介する。

【法則10】より速く始めて動きながら機会を見つけた者が勝つ

列強に包囲されたナポレオンが、なぜ快進撃を続けられたのか?
貴族支配と財政破綻による重税で、フランスでは市民が一斉蜂起。1789年に人類史上初の、平民によるフランス革命が成立する。革命の波及を恐れる周辺君主国は大挙してフランスに干渉。多数国と戦う戦場で、革命の申し子ナポレオンは、なぜ快進撃を続けられたのか?

4回にわたる大包囲網と戦ったナポレオン

 西ヨーロッパを統一したカール大帝の死後、息子たちに帝国は分割され現在のフランスの前身である西フランク王国が生まれます(843年)。1337年から約100年間、フランスの王位継承問題でイギリスと争った100年戦争が起きますが、王家が入れ替わりながら次第にフランスは国家としての枠組みを確立していきます。

 1500年代末からブルボン家がフランスを支配し、「太陽王」と呼ばれたルイ14世の時代に領土拡大に成功するも、膨大な戦費で財政が破綻。ルイ15世、16世の時代には重税に市民が苦しみ、1789年ついにフランス革命が勃発。ルイ16世は翌1793年にパリで処刑され王政が途絶えます。

 フランス革命で立ち上がった共和政府は、革命の余波を恐れる周辺君主国の干渉で戦争を開始。フランスは大きく4回の大包囲網(細分化して六度とすることも)に遭遇し、度重なる戦争に突入します。

(1)1793~97年(イギリス・スペイン・オーストリア他)
(2)1799~1802年(イギリス・オーストリア・ロシア他)
(3)1805年(イギリス・オーストリア・ロシア他)
(4)1813年(ロシア・イギリス・オーストリア他多数)

 大同盟の多くはイギリスが提唱し、フランスを多数の国家で包囲しますが、第1回は若きナポレオンの活躍などで瓦解します。第2回はナポレオンがイギリスとその植民地であるインドとの連絡を絶つためのエジプト遠征後に結成されましたが、これもフランス軍が勝利します。

 ナポレオンの皇帝即位で第3回が始まりましたが、アウステルリッツのフランス軍勝利により、またも対仏大同盟は消滅します。第四回はナポレオンがロシア遠征に失敗した直後に結成され、ライプチヒの戦いでついにフランス軍が敗北。対仏同盟軍はパリを占拠し、ナポレオンはエルバ島へ流刑となります。ナポレオンの生涯は、対仏大同盟との激突の歴史と言っていいほどです。

戦場の変化に即応して三帝会戦に勝利

 1805年にアウステルリッツでロシア・オーストリア連合軍と、ナポレオンのフランス軍が対峙。三人の皇帝により争われたこの戦いは「三帝会戦」とも呼ばれます。

 敵の連合軍約九万に対して、フランス軍は6万5000人の劣勢でしたが、ナポレオンは巧みに自陣の右翼が弱いように見せかけて敵を誘い、罠にはまった敵がフランス軍の右翼に殺到した段階で、隊形が崩れた敵中央へ味方の主力を突撃させます。

 敵の中央を分断し、ナポレオン主力は右翼に殺到していた敵を後方から包囲します。同時に、弱かったはずのフランス軍右翼は、後方に控えていたフランスのダヴォー軍が加勢したため、敵連合軍は突破できずに包囲されて壊滅しました。

「右手で敵の攻撃を受け流して、左手でパンチを浴びせるナポレオンの得意技」(松村劭『ナポレオン戦争全史』より)

 ナポレオンは両軍が遠く対峙する「静的」な状態ではなく、敵がチャンスを見つけたと思い込み、動き始めた「動的」状態に勝機を見出していました。事前の準備で見えず、実際に物事を進行させた状態ではじめて出現する機会を捉えて劇的な勝利を得たのです。

 戦場の「動的」状態に好機を見つける戦法は、若きイタリア戦役からナポレオンが一貫して発揮し続けた才能であり、敵の古い貴族指揮官を震撼させた戦い方でした。