この段階でシューベルトの将来は何ら約束されていません。音楽で身を立てる状況にはありませんし、就職する当てもありませんでした。手に職がなければ生きてはいけない庶民の子です。父の経営する私立学校の代用教員となる道はありましたが、その為には資格が必要です。エリート校を放校になったシューベルトの現実的選択肢は、教職免許を得るための師範学校への入学でした。音楽はなく悶々として好きでもない学科を納め資格を得るための無味乾燥な日々が始まったのです。

 そんな失意の底で、シューベルトは17回目の誕生日を迎えます。1814年1月31日のことです。

 残念ながら、1814年の1月から8月までのシューベルトの生活の詳細は分かっていません。多作なシューベルトですが、この時期には作曲された形跡がありません。おそらく、教員資格を取るのに忙殺され作曲どころではなかった、というのが実態だったのでしょう。『旋律が空から降って来る』とか『頭の中から旋律が溢れて来る』というのは、極めて文学的な言い回しでしかないのかもしれません。天才といえども人の子なのですから。

 ようやく教員資格を得て、父の学校の代用教員に採用された秋以降、再びシューベルトの創作意欲は高まります。後世に残る傑作が立て続けに生まれます。暗く厳しい冬があればこそ春の陽光がもたらすエネルギーは大きく、豊かな収穫を約束します。心の闇を潜り抜けたからこそ創造力が高まったのかもしれません。あるいは、当面の生活の心配がなくなることで肩の荷が下りて、自由な発想で音楽に取り組むことができたのかもしれません。

 17歳の誕生日から8ヵ月、シューベルトは、いずれ音楽で身を立てるための将来の設計図を描き始めたのです。

根っからの宗教音楽家

 上述のとおり、シューベルトの音楽体験が本格化したのは教会でした。生活の目処がついた17歳の夏に作曲に着手したのが宗教音楽だったのは当然と言えば当然でした。そして完成した「ミサ曲へ長調(第1番)」は、1814年10月16日、子供の頃から通ったリヒテンタール教会の百年記念祭で、シューベルト自身の指揮で初演されます。実は、この曲は、公の場で演奏されたシューベルトの最初の作品となります。

 ソプラノ独唱は当時の恋人だったといいます。恋多きシューベルトの一面をうかがい知ることが出来ます。ミサ曲は、管弦楽とオルガン、声楽が一体となった崇高かつ劇的な音楽です。19世紀最高のメロディーメイカーとしてのシューベルト面目躍如の圧倒的な音楽です。“キリエ”から“アニエス・デイ”まで全6楽章、45分を超える主イエス・キリストの時空を構築します。

 ところが、ミサ曲は当時過小評価されていて、他のシューベルト作品に比して録音が極端に少ないのが実情です。そのなかで全6曲を仕上げたブルーノ・ワイル盤(写真)は偉いです。