ここまでの説明を読むと、筆者が真っ先に思い浮かぶのが、連載第25回で紹介した、大手メーカーに勤務する東大卒の男性社員である。この社員のキャリア(特に人事異動)に着眼すると、岩田氏の指摘がより具体的に見えるようになる。

 岩田氏は、日本社会に浸透する能力観はアメリカのそれとは明らかに異なり、いわゆる「実力」とは違ったものであることも指摘している。

高卒で家族を立派に養う会社員が
なぜ劣等感に苛まれる必要があるのか?

 ここからは、筆者の考えである。岩田氏の分析は、裏を返すと、10代の頃の高校や大学受験、あるいは企業の採用試験(新卒・中途)などで一定の結果を出すことをできなかった人への捉え方が、こうなりはしないか。少なくとも、筆者の観察ではこう見える。

「“潜在的な能力”がないと証明されたとみなされると、その人間は、競争相手に対して、きわめて不利な立場に立つ。彼には、もはやそのことを覆すことがなかなかできない。できることは、ただ、ねたみ、ひがむことなのだ」

 これが、今回の記事の前半で取り上げた山田のような人の心理なのではないだろうか。

 繰り返し考えるべきは、日本社会に浸透する能力観は、アメリカ社会の「実力」とは違ったものであること、そして「劣った能力の証明」とまでは言い切れないことが多々あることでもある。

 事実、山田は高卒ではあるが、大卒が多数ひしめく中で二十数年にわたり仕事をしてきた。妻と娘を養い、すでにその娘は成人している。「能力が劣った」人では、これはできないことだろう。ところが、本人はその定義すら曖昧な「能力」なるものが劣っていると思い込み、大卒の人をねたみ、ひがみ続けている疑いがある。これは、あまりにも惜しい生き方なのではないか。

 なお、岩田氏の著書では、企業社会での学歴を考える上で下記のものも非常に参考になる。一読を勧めたい。

「学歴主義の発展構造」(日本評論社)