信を襲った悲劇

 ところが結婚式のちょうど1週間後にあたる2月11日、悲劇が起こった。

 その日、信は幸一の結婚報告と食糧の買いだしを兼ね、近江八幡の実家を訪れていた。

 駅までは遠いのでバスに乗らねばならない。当時はガソリンが貴重だったので、木炭バスが走っていた。車体後部に木炭を燃やす炉を付け、木炭ガス(一酸化炭素)を燃料にして走るバスのことである。

 荷物は多い。

 両手に風呂敷包みを持ったままバスに乗りこもうとしたが、ぎゅうぎゅう詰めなものでまごついているうち、急にバスが発車してしまった。

 信ははずみで転げ落ちてしまう。

 急ブレーキをかけたが間に合わない。あっという間に信の右足はバスの後輪にまきこまれ、無残に轢かれてしまうのだ。

 すぐに病院に担ぎ込まれた。信は気丈にも気を失うことなく姓名を名乗り、連絡先を伝えたという。

 町長の娘だということもあって、すぐに診察してもらえた。傷口はぐしゃぐしゃで泥なども付着している。化膿して敗血症になると命取りだ。すぐに大腿部から切断すべきだと診断が下された。

 信はどういう措置をするかも知らされないまま、麻酔をかけられて手術台に運ばれていく。そしてそのまま入院となった。

 悲報を聞いて、近くに住む富佐子はもちろん父伝左衛門なども駆けつけてくれた。

 粂次郎は約1ヵ月、これまで苦労をかけた罪滅ぼしの思いもあってか、毎日のように病院通いを続けた。富佐子も幼子を抱えながら看病した。

 近江八幡での事故だったのは不幸中の幸いだった。物資不足であったにもかかわらず、実家の岡田家が食べ物を差し入れてくれたからだ。

 ベッドから起き上がれないから、足がどうなっているか見ることが出来ない。しばらくの間、右足が切断されたことは信には伏せられていた。

 幸一も仕事の合間に急いで駆けつけたが、足をなくしたことを知らずにいる母親の姿が痛ましかった。結局彼女は1ヵ月以上、足がなくなったことを知らなかった。

 6ヵ月後には退院し、義足をつけての歩行訓練が始まった。昔の女性はたくましい。彼女は落ち込んでいる様子を一切見せなかった。

 幸一が戦地に赴いたおり、毎晩、近くの御池通りの御所八幡宮に参りながら、

 (自分の足や手は片方なくなってもよいから、どうぞ無事で帰って来てほしい)

 と祈っていた。

 息子の身代わりに右足を失ったのだと思えば、何の不平不満もわいてこない。気丈な母親に幸一は涙がこぼれた。もともと母親に対して人一倍親孝行だったが、これを機にますます大切にするようになっていった。

 不幸なことばかりではない。結婚の翌23年(1948年)1月29日、長男能交(よしかた)が誕生する。

 粂次郎は幸一が出征する際、泰交、展交、能交の3つの名前を考えていた。すべて16画で画数がいい。自分が泰交を名乗り、幸一を展交に改名させ、残った能交を新たに生まれてきた塚本家の跡取り息子につけた。

 泰らかに家を興し (粂次郎、俗名泰交)
 我はこれを展す  (二代目 幸一)
 能く交わりて固めよ(三代目 能交)

 子供の誕生は、家族にとって最高の幸福である。

 すぐ年子として昭和24年(1949年)12月8日、長女真理が生まれ、昭和31年(1956年)7月5日には次女の洋子と、一男二女が立て続けに生まれ、家の中は一気ににぎやかになった。

 やがて信は義足をつけてリハビリをし、家の2階にもあがれるようになる。かいがいしく孫の世話をしてくれ、幸一はひとまずほっとするのだった。

(つづく)

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