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2016年の日本の夏は、「現実」と「虚構」の戦いの夏だったといえる。 ふたつの大きな話題が、まさに現実と虚構をテーマとしたものだったからだ。
ひとつは「ポケモンGO」で、まさにAR(拡張現実)により、現実の世界の中に虚構の生物(ポケモン)が登場し、それを僕らがリアルに楽しむという、現実と虚構の融合という新しい娯楽体験を提供した。もうひとつは、映画『シン・ゴジラ』だ。この映画、ポスターのキャッチコピーは「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)。」というもので、まさに現実と虚構が戦う映画だった。
「現実 対 虚構」に込められた意味
しかし、このコピー、よく考えればかなり意味深だ。そこには「虚構(映画)は現実社会を超えられるか?」というニュアンスが込められていると思うが、虚構が現実を超える、現実に打ち勝つということはどういうことなのか。これはなかなか難しい問題だ。さまざまな意見があるかと思うが、僕はそれを「現実と虚構(この映画)、どちらが人々に対してリアリティを感じさせるか?」ということではないかと思っている。
もちろん、この場合の「リアリティ」とは、単に「現実」、つまり「現に、実際に、事実として起きていること」という辞書的な意味ではない。そもそも「現実とはなにか?」という問いに対する答えはそう簡単ではないのだ。
たとえば「幻影肢」(幻肢ともいう)という現象がある。これは、事故などが原因で脚や腕などの四肢を失った人が、ないはずの四肢の存在や痛みを感じるという現象だ。もちろん、その痛みとは切断面の痛みではない。たとえば、膝から下を切断したのに、(失ったはずの)つま先に痛みを感じたりする。これを幻肢痛というが、生まれながらにして脚や腕を持たない人でも、幻影肢や幻肢痛を感じることもあるという。
では、この場合の「現実」とはいったいなんなのか。腕や脚がないという「客観的な事実」が「現実」なのか。それとも、痛みや存在を感じるその感覚の方が「現実」なのか。「現実」を「現に、実際に、事実として起きていること」という意味だと定義しても(辞書ではそう定義されている)、幻肢痛を感じている人間にとっては、その痛みとは「現に、実際に、事実として起きていること」である。実際には存在しないつま先に痛みを感じることは、その人間にとってはやはり「現実」なのだ。
この幻影肢、幻肢痛の例だけから考えても、「現実とはなにか?」という問いは非常に難しく、深いものがあることがわかる。だから『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実 対 虚構」という言葉も、実際のところ、いったいなにを語りかけているのかを判断することは難しいのだが、今回はそのことを踏まえながら、日本人はなぜゴジラ映画を作り続けるのか、作らずにはいられないのか、を考えたい。