ハリウッド版にはない、ゴジラのDNA

 『シン・ゴジラ』をめぐっては、ネットではちょっと奇妙な空気感が流れている。この映画を賞賛するブログ記事やSNSでの投稿がどんどん増大しているが、そうなると批判意見も出てくる。それは当然ではあるのだが、『シン・ゴジラ』に対する批判記事を書くと、即座にサヨク認定されてしまうという風潮ができあがっている。批判記事をアップすると「サヨクは宮崎アニメでも見てろ!」みたいな「罵声」が浴びせられるのだが、なぜ、この映画を批判するとサヨク認定されるのか。

 また、一部ではこの映画を「新・国策映画」だと「批判」する人間もいる。ある種の人間はなぜ、そのような感想を抱くのか。それはやはり、ゴジラや怪獣映画というものが、日本の神話だからだ。神話というものは基本的に国作り物語であり、民族のアイデンティティである。だから、神話を否定する人間に対してはサヨクだと批判が集まるし、民族的アイデンティティなどというものを否定したい人は、映画に神話の臭いを感じると「国策映画だ!」と批判する。

 批判も賞賛も、それは見る人の自由なのだが、ゴジラには禍々しさと神々しさが同居していることは、思想とは関係なく感じてしかるべきだ。その神々しさは、ゴジラが神話だからこそ生まれるものであって、ハリウッド版では、1998年公開の、いわゆる『トカゲ・ゴジラ』はもちろんのこと、2014年公開の『GODZILLA』にも、神々しさは感じられない。当然だが、欧米人には日本の神話のDNAはないし、ヤマタノオロチのこともわからない。だから、「本当のゴジラ」「神話としてのゴジラ」は、日本人でなければ作れない。そして神話とは、語り継ぐべきものだ。日本でゴジラ映画を作り続けることの意味と理由はそこにある。

 そして、神話とは基本的に「虚構」だ。しかし、その「虚構」は現実のメタファーであり、メタファーであるが故に、現実以上に民族のリアリティというものを人々に感じさせる力がある。『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実 対 虚構」とは、そのような意味で、虚構は現実を超えたリアリティを生み出すというメッセージではなかったかと思う。

*以下はネタバレありにつき、注意。

 ゴジラがヤマタノオロチであることは、最後のシーンにもキッチリと描かれている。映画の最後、ゴジラは血液凝固剤を経口投与され凍結する。これは、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する時に、酒を飲ませ酔って寝てしまったところを退治したエピソードの踏襲だ。その時、ヤマタノオロチに飲ませた酒の名前を「ヤシオリノサケ」(八塩折之酒)という。ゴジラ退治の作戦名も「ヤシオリ作戦」だ。

 やはり『シン・ゴジラ』はヤマタノオロチであり、日本古来からの「神話の現代版リメイク」だったのである。