世界の哲学者はいま何を考えているのか――21世紀において進行するIT革命、バイオテクノロジーの進展、宗教への回帰などに現代の哲学者がいかに応答しているのかを解説する、哲学者・岡本裕一朗氏による新連載です。9/9発売からたちまち重版出来(累計2.1万部)の新刊『いま世界の哲学者が考えていること』よりそのエッセンスを紹介していきます。第12回は世界に「自由」が実現されない理由を検討したアマルティア・センのパラドックスを解説します。

自由主義のパラドックス

資本主義は、私的所有の自由を前提にしたうえで、経済活動における利潤追求の自由を中心としたシステムですから、資本主義の根底には自由の原理があります。しかし、一口に「自由」といっても、その意味は多様なので、語る人によって共通の理解が成り立っているわけではありません。

しかも、現代では資本主義そのものが、19世紀の頃の産業資本主義から大きく転換していますので、「自由」のあり方も根本的に変わっているはずです。たとえば19世紀の「古典的リベラリズム」においては経済の自由放任が求められていました。その後、20世紀の「社会的リベラリズム」では市場介入や福祉政策による自由の保護が目指されました。20世紀末の「ネオリベラリズム」ではハイエク、フリードマンらによって「市場原理主義」という自由が提唱されたのです。

じつに多様な「自由」のありようが確認できますが、ここで基本的な問題に立ち返っておきたいと思います。それは、そもそも社会制度として自由主義が可能なのか、という問題です。というのも、自由主義は原理的に成立できない、かもしれないからです。

しかし、こんなことを言っても、その意味が分かりにくいと思いますので、この問題を提示したアマルティア・センの議論を見ておきましょう。センといえば、1998年にアジア人初のノーベル経済学賞を受賞したハーバード大学教授ですが、1970年に発表した論文において、「自由主義のパラドックス」を提起したのです。

この問題は発表した直後、それほど話題にならなかったのですが、数年たってその重大さが気づかれて、論争が巻き起こりました。というのも、簡単な論理的形式化によって、自由主義の不可能性を論証してみせたからです。

その意図を理解するために、ここでは最近の著作(『正義のアイデア』2009年)の例を取り扱うことにしましょう。センが提示したのは、次の事態です。

ここにポルノ本とされてきた1冊の本があり、それを読むかもしれない二人の人がいるとしよう。プルード(堅物)と呼ばれる人はこの本を嫌い、それを読みたいとは思っていない。しかし、その本が大好きなルード(猥褻)と呼ばれる人がそれを読むことによってもっと大きな迷惑を受けると思っている(プルードは、ルードがその本をクスクス笑いながら読むのに特に悩まされている)。一方、ルードはその本を読むのが大好きであるが、プルードがそれを読むことの方を望んでいる(苦しいほど、ルードは望んでいる)。

何の変哲もない例のように見えますが、どうしてこれが「自由主義のパラドックス」と呼ばれるのでしょうか。まず、それぞれの行動の選択として、プルードが読む(P)・ルードが読む(L)・誰も読まない(O)の三つが考えられます。

これをもとに、二人の選好の順序を考えると、次のようになります(不等号「左>右」は、「左が右よりもよい」を意味します)。

プルードの場合:O>P>L
ルードの場合:P>L>O
二人とも望むこと:P>L(共通のルールとすべし)…(1)

また、この二人からなる社会を考えてみると、それが「自由」な社会であれば、他人に何ら関与しなければ、個人の選択を自由にできます。そこで、この自由の原理にもとづいて、二人の選好をもう一度考えてみると、次のようになるはずです。

プルードの場合:O>P(こんな本は読みたくもない)
ルードの場合:L>O(この本を読まないよりも読んだ方が楽しい)
二つを合わせると:L>O>P
すなわちL>P…(2)

ここで、(1)と(2)を比較してみますと、まったく逆になっているのです。ここで(1)は「パレート原理」と呼ばれ、「社会の全成員が一致してある社会状態を選好するならば、社会全体にとってもその状態を選択するのが望ましいと判断されねばならない」とされます。二人ともが、LよりもPが読む方がよいと考えていますから、全体としてP>Lとすべきでしょう。

ところが、個人的自由の原理から言えば、(2)L>Pが出てくるのですから、全体の決定とは矛盾するわけです。そのため、センは次のように述べています。

パレート原理とリベラリズム原理を所与とすれば、われわれが思いつくどんな解決策よりも、他の解決策の方が優れたものとなり、選択の矛盾に突き当たるように思われる。

とするならば、自由主義は社会においてどのように成り立つのか、あらためて問題になるのではないでしょうか。