貯めたカネが使えないのなら、ないも同然だ。貸したカネが返ってこないのなら、差し出したに等しい。個人も国家も同じである。

 昨年の11月中、日本経済新聞に野村証券元会長の田淵節也氏の「私の履歴書」が掲載された。その最終回は今後の世界経済の動きをいくつも示唆して興味深いのだが、「軍事力も持たずに金融立国の幻想を抱いている人」という気になる一節が出てくる。つまり田淵氏は、軍事力を持たない日本が金融立国など果たせるはずがない、と言っているわけだ。一体それは、どういうことなのだろう。

 実は、軍事力の裏打ちのない金融立国は幻想に過ぎないというのは古典的テーゼである。例えば、金融立国を債権国に言い換えてみると、理解しやすいだろう。ある国が他国に融資あるいは投資を行い、対外資産を積み上げ、運用する。この両国関係が、何らかの理由で極度に緊張したとする。主権国同士が対立し、外交手段で解きえないとき、資産の回収圧力あるいは最終的な実践手段は軍事力しかないという考え方である。

 では、この古典的テーゼは19世紀的遺物だろうか。

 違う。

 21世紀の今日も生きている。

 日本は現在、100兆円もの外貨準備を外国為替資金特別会計で管理し、そのほとんどを米国債の購入に充てている。円高防止のために円売りドル買いを繰り返し、溜まったドルを米国債で運用しているわけだ。これはつまり、米国に融資しているのと同義である。この米国債を、かって橋本龍太郎首相が「売りたい誘惑に駆られたことがある」と発言しただけで、マーケットは急落した。日本は米国の生殺与奪の権を握ったのだろうか。

 むろん、そんなわけはない。